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1、第二次世界大戦末期まで(歴史、カイロ宣言、ポツダム宣言、ヤルタ協定)

戦前まで日本領だった千島列島というのは、北海道の北東部に連なる20数個の島々のことである(以下参照)。

 (1) http://imagic.qee.jp/hoppou/chishima.gif

日本政府は「国後・択捉・歯舞・色丹」の四島を「北方領土」と呼び「千島列島に含まれない」としているが、煩雑さを避けるため、以降は場合により四島を千島列島の中に包含させて説明する。

日本人は鎌倉・室町時代から北海道に進出してアイヌと抗争や交易をしていたが、江戸時代になると日本人による拠点化がさらに進み、1635年には松前藩による調査が行われ「くなしり、えとほろ、うるふ」の名前が初めて文献に正式に現れた(以下参照)。

 (2) https://www8.cao.go.jp/hoppo/3step/02.html

ヨーロッパ人としては、オランダ人が1643年に初めて千島列島を訪れたと言われている。オランダ人たちの報告を聞いたためだろうが、ロシアはその数年後に遠征隊を千島に派遣した。この時の遠征をもって「最初に千島列島を発見したのはロシアだから、北方領土はロシアの物だ」とする意見がある。しかし、日本人たちがそれより遥かに早くから千島列島に進出してアイヌたちと交易をしながら日本の経済圏に組み込んでいたことを考えれば、ロシアの主張は意味を持たない。そもそも、領土というのは発見により確定するものではなく、漁や交易などをして自国の経済圏に組み込んで自国民が長年そこで各種活動をし、警察権・司法権などを及ばせて管理した結果認められるものであるから、ロシアの「先に発見した」という主張は国際法上、何の意味も持たない。

その後、ロシアの東進政策が本格化し、中ロ国境で紛争を引き起こすとともに千島にもたびたび来訪して紛争を起こすようになったため、幕府は千島を保護する目的で直轄領とし、択捉島に番所を置いた((2)参照)。しかし、訪れるロシア人の数がさらに増えたためロシアとの国境画定が必要となり、江戸時代末期の1855年に北方四島の北に日露の国境を定めた。
 
(*a) この事実が、「北方四島は江戸時代から平和的に認められた日本固有の領土である」とする主張の根拠となっている。

江戸時代に千島の国境は画定されたものの樺太の国境は画定されず「日露の雑居地」とされていたが、明治になると樺太の国境を定めようという動きが出てくる。日本は千島四島を手放す代わりに肥沃な樺太の領有を求めたが、ロシアも肥沃な樺太を譲らず武力に訴える旨をほのめかしたため、小国であった日本は対馬事件(以下(3)参照)のような武力衝突が起こることを恐れて譲歩するしかなかった。

 (3) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%889%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

平和的な交渉の結果、1875年に日ロ間で樺太・千島交換条約((4)参照)が結ばれ、日本が樺太を諦めた代償として北方四島より北に位置していた千島18島を得た。

(*b) 1875年の条約により千島全島が、日本がロシアと平和的に話し合った結果として領土となった。この事実が共産党などによる「千島全島返還論」の根拠となっている。

 (4) https://www8.cao.go.jp/hoppo/shiryou/pdf/gaikou02.pdf

千島周辺の領有権の変遷は以下のページに簡潔にまとめられている。

 (5) https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_seisaku-gaikou20161212j-11-w570

その後、北方領土と樺太が現在の状態になったのは、第二次世界大戦の戦後処理として1951年のサンフランシスコ講和条約が結ばれたことによる。同条約により日本は樺太と千島列島を放棄した。次に、サンフランシスコ講和条約に至る前の大戦末期までの連合国側の動きを説明する。

戦前の日本は、千島・南樺太・朝鮮半島を領有していたが、満州にも干渉して中国から分離・独立させたため国際的に孤立していた。そして、日本は次第に中国利権を持つ英米との対立を深めて行った。日本は、日本と同様に英米と対立していた独・伊と同盟を結び、その後、ソ連とも中立条約を結んで英米勢力への牽制を試みた。独ソ不可侵条約も存在していたため、日本としては対英米勢力をまとめ上げることができたと考えていた。しかし、日本の思惑は外れ、突然ドイツがソ連に攻め込んで戦争を始めた。独ソ戦におけるソ連側死者数は諸説あるが、西側陣営の学者による見積もりでは900万人が定説とされ、ソ連側は反独感情も加わって戦死者は1500万人に上ると戦後に主張している。第二次世界大戦による日本人死者数は300万人ほどだから、ソ連の受けた損害は非常に大きなものだったことが分かる。このときに培われたロシア人の反独感情が、後に述べる戦後の日本人のシベリア抑留による虐待の一因になっているという説がある。また、ソ連時代の歪んだ歴史教育により、現在のロシア国民にも「日独が共謀してソ連に侵攻した」と誤って認識している者たちが多数存在するため、日ロの領土交渉がロシア国民の感情的反発によりとん挫する一因になっている。

ドイツの侵攻によりソ連が大損害を受けている間、日本は一発の銃弾も撃たずに日ソ中立条約を順守した。独ソ開戦から数か月後、日本は日ソ中立条約により後顧の憂いがなくなったと信じながら対米戦を開始する。その結果は、誰もが知る日本の敗北に終わる。この大戦中に、以下に述べる北方領土に関する重要な出来事が起こっている。

まず、1943年に米英中(国民党政府)がカイロで開いた会談において発表したカイロ宣言((6)参照)が挙げられる。これはポツダム宣言でも引用され、また、サンフランシスコ講和条約においても領土画定の指針とされたため、北方領土問題にとって非常に重要な意味を持っている。

 (6) http://www.chukai.ne.jp/~masago/cairo.html

カイロ宣言において上重要なのは、以下の部分である。

 ・同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。
 ・日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域
  から駆逐される。

カイロ宣言は米英二国による1941年の太平洋憲章の精神を米英中の三国に広げて受け継いだものであり、単に方針を述べただけにとどまらず、ポツダム宣言中において引用されたことにより日本に対して法的な履行義務を負っている。上記2番目の条項によれば、日本が平和裏に得た領土は「暴力や強欲によって得た領土ではない」から領有を保障されることになる。それによれば、(*b)に上述したように日本は全千島列島を平和裏に得ているから、本来ならば同条項により千島列島は日本に残るはずであった。そのことは吉田茂が後述のサンフランシスコ講和会議でも指摘している。しかし、ソ連が「戦争により日本が得た領土だ」と嘘をつき、反日感情の強かった米英がそれを公然と見逃したこともあって、後述するようにサンフランシスコ講和条約で日本は千島列島を放棄させられた。

次に重要なのはポツダム宣言である。ポツダム宣言は、1945年7月に米英中が、独伊の降伏した後も抵抗を続けていた日本に向けて降伏するように勧告したものである(以下参照)。

 (7) http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

連合国は戦時中からカイロ宣言やポツダム宣言について書いたビラをB29から投下し、また、日本政府にもポツダム宣言を受諾するように勧告した。最終的には、日本はポツダム宣言に書かれた内容が守られることを信じて降伏を受け入れた。ポツダム宣言は日本と連合国の代表が正式に調印式を行った国家間の約束であり、法的な義務を持つ。後にソ連も追認してポツダム宣言に加わっているから、ソ連もポツダム宣言に書かれた内容を日本に対して順守する義務がある。日ソ関係において、ポツダム宣言で重要なのは以下の部分である。

 八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、
   北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
 九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ
   平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ

この「八」にはカイロ宣言が履行されなければならない旨が書かれているから、上述したように、日本が平和裏に得た領土を日本が放棄する理由はない事になる。このことが、ソ連に対して日本が北方領土の領有を主張している強い根拠となっている。

カイロ会談・ポツダム会談とは別に、戦時中に行われた日ソ関係において重要な会談として1945年2月のヤルタ会談が存在する。この会談は英米ソの間で話し合われた会談であり、太平洋側からの日本への正面攻撃だけでは損害が大きくなることを懸念した米国がいくつかの権益を提示してソ連の参戦を促している。米国からソ連に提供することを提案された権益はすべて日本が所有していたものであり、「樺太を日本からソ連に返還させること、千島列島をソ連に明け渡すこと、満州等におけるいくつかの権益をソ連が得ること」などが示された。この3国間の密約は「ヤルタ協定」として戦後の1946年になって初めて公表された(以下参照)。

 (8) https://www8.cao.go.jp/hoppo/shiryou/pdf/gaikou07.pdf

後に、ソ連が北方領土領有の根拠としてこのヤルタ協定の存在を主張したが、米国はそれが無効であることを1951年の時点までに既に米上院で議決して確認している。また、英国もヤルタ協定が無効なことは1956年の時点で私的に態度を表明していて、1988年には日本側の「4島領有」の主張を認めると立場の変更を行っている。領土の割譲というのは領土を放棄させられる国が新しく領土を得る国に対して正式に条約を結んで初めて有効となるから、密約により勝手に他国の領土をやり取りしても国際法上は不法行為として無効とされる。米英としては、国際信義に著しく反する密約の有効性を現在においても主張することはできなくなっている。そのため、ソ連を継いだロシアにおいても、かつてのようなヤルタ協定を根拠として領有権の正当性を主張する意見は後退している。

連合国間でこれらの宣言や協定が結ばれた後、戦争は終結に向かって動いて行った。
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