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二島返還論について

ネットでは、また、北方領土についての滅茶苦茶な主張が飛び交い始めたようだ。日本側の「2島返還論」というのはその成り立ちがかなり怪しい。2島返還論というのがどのようなものか、それについて見て行きたい。



最初にはっきりと言ってしまえば、「2島返還論」というのは自民党の中で鳩山一郎と河野一郎たちが突然言い出した主張であり、何の条約的根拠も理論的根拠も持っていない。

日本がソ連と平和条約交渉を始めた頃、旧自由党と旧民主党が保守合同を行い自民党を作った。旧自由党系には吉田茂や池田隼人などがいて、彼らは「アメリカべったり」の政策を基本としたために、米国は吉田や池田の派閥をあからさまに支援した。しかし、吉田や池田は、日本の戦前の体制を好む日本人層からは好かれていたとは言えない。一方の旧民主党系には鳩山一郎や河野一郎がいて、反米・自主独立憲法制定・アジアの独立圏構想などを唱えたために日本の右系の人々からの受けは良かったが、米国から徹底的に嫌われてマークされた。この鳩山・河野の派閥が突然唱えだしたのが2島返還論だ。

鳩山・河野グループの特に鳩山は、戦前議会で天皇の大権を用いて他の議員を非難し、軍部の議会への進出を促すような主張を行い、大政翼賛会の結成を陰で支えた疑惑が持たれていたりしたため、米国からは「戦前日本型の強硬保守」として徹底的にマークされていた。ただし、鳩山は東条英樹のように人の家のゴミ箱まで視察するような憲兵上がりのしねっこびれたいやらしい体質の保守ではなく、人柄は大らかであったために、戦後も戦前回帰を望む日本人たちからは絶大な人気を集めていた。例えて言えば、ジャイアンやスネ夫のように人格的に嫌われるような存在ではなく、サザエさんに登場する人格が丸い波平が大らかすぎて少しおかしな宇宙人的なことを考えながら戦前保守の思想を唱えていたようなものだ。そのため、戦前の体制や考え方に慣れ親しんだ庶民層からは非常に受けが良かった。しかし、いくら人格的に大らかと言っても、鳩山の思想の根底には米国が決して看過できない戦前の保守の中の保守の思想が横たわっていたために、米国は常に鳩山たちを警戒し、時には徹底的に鳩山たちの妨害をした。例えば、保守合同以前に鳩山が単独で政権を取りかけた途端、米国は公職追放令を出して鳩山や河野を下野させ、子飼いの吉田グループを政権に着かせたりしている。河野に至っては、下野中に投獄されたりもしている。そのような鳩山や河野が、政界復帰後に突然言い出したのが「2島返還論」だ。

鳩山としては、米国とソ連が火花を散らし冷戦をしている脇で、そういう争いから離れたアジアに戦前の大東亜共栄圏のようなものを作るつもりだったようだ。しかし、鳩山の唱えた「自主独立憲法を制定し、アジアに米国からもソ連からも影響されない独立の文化圏を作る」という構想は、もちろん、当時の情勢からすれば絶対的に無理な主張だった。実際、同じ派閥の重鎮であった重光葵などは「また、鳩山さんがおかしなことを言い出した。米ソの対立がどれほど激烈であり、どれほど全世界を巻き込んだものか理解していない。困ったものだ」という旨の批判を行っていた。鳩山は「鉄のカーテンの向こう側のソ連を国際社会に引きずり出して貿易などを行えば、嫌でも戦争は起こせなくなる」などというように、当時としては果てしなく楽観的な主張も行っていた。そのような鳩山が各種事情により総理になった頃、ソ連にも変化が起こり、フルシチョフが西側諸国と融和的な政策をとろうとしていた。そして、ソ連は、隣国日本との間で戦争状態を正式に終結させようとした。平和条約締結についてはソ連の方が積極的であり、ソ連から日本に使者が送られて平和条約の話が本格化した。

このような事情により、日ロの平和条約交渉が始まった。
このとき、鳩山たちが突然唱えだしたのが「2島返還論」だ。

戦前型の強硬保守思想を持つ鳩山は、常日頃から「絶対的な反共主義」を唱えていたから、初めはソ連が使者を送ってきたことを無視した。ソ連が終戦時に日本人に対して暴虐な行為を繰り返し、また、依然としてシベリアに抑留者を留めたままであったため(以下、URL参照)、当時の日本人の対ソ感情は極度に悪かった。日ソ間には国交が完全に存在せず、大使館なども置いていない状態であった。そのため、話し合いの取っ掛かりをつかむためにソ連から派遣された得体のしれない「連絡員」は、右の思想を持つ鳩山により門前払いにされた。

https://qvahgle-gquagle.blog.ss-blog.jp/2019-03-05-02

紆余曲折の後、なんとか日ソ間で平和条約交渉が始められたが、交渉初期にソ連はいきなり最終カードである「2島返還(ソ連の好意によるソ連領の譲渡であるとソ連は主張した)」を切って来た。ソ連としては、列強の一角であった日本やドイツをいつまでも無視して戦争状態を続けるようなことは、外交上の恥以外のなにものでもなかった。戦争被害についての補償問題や抑留者の問題、領土問題などを形だけでも解決・決着したように見せかけて平和条約を結ぶことは、西側諸国との融和に動こうとしていたソ連にとって喫緊の課題だった。つまり、日ソの平和条約交渉は、ソ連側からの強い要請により始まったと言えるだろう。

このとき、鳩山と河野たちはソ連の出した「2島返還」の提案に飛び付き平和条約を結ぼうとした。米国により散々に嫌がらせを受けていた鳩山と河野は、「反米」でありさえすれば誰とでも何とでも手を組むつもりだったようだ。

しかし、当時の自民党には、保守合同の時に話し合って決めた党是の一つに「樺太・北千島は国際会議を開かせ、そこで諮って国境を確定させる。4島は無条件に返還させる」という条項が存在した。そのため、自民党員の大半が鳩山たちの対ソ外交方針に反対した。北千島や樺太までもを返還要求の視野に入れていた者たちがほとんどだったのであるから、4島どころか2島で手を打とうとする鳩山たちの主張に対しては当然の反応だったと言えるだろう。特に親米政策を採る旧自由党系の吉田たちが立腹して「ソ連無視」を強烈に主張したため交渉は領土問題で行き詰り、ソ連との交渉は「お流れ」となる可能性が高くなった。

しかし、ソ連としては何としても日本と平和条約を結ぶつもりであったから、そのまま日本を交渉の席から撤退させて交渉を終わらせるわけにはいかなかった。そこで、ソ連は「北洋漁業を許可しない」という圧力を日本にかけて来た。当時の日本は外貨も少なく、国民の蛋白資源を漁業に大きく依存していたため、日本にとっては死活問題だった。また、北洋漁業を行っていた数社の大手水産企業にとっても死活問題であり、鳩山政権に泣きついて来た。北洋漁業関係の企業群と太いパイプを持っていた河野一郎としても、見過ごせない状態であった。

「生命線」を揺すられたために、仕方なく、日本は漁業交渉に限定してソ連と会話を続けることになった。この時の漁業交渉のためにソ連に派遣された日本側の代表が農水相であった河野一郎だ。この交渉において、河野は奇怪な行動に出た。河野は、モスクワでの交渉において、外務省職員や日本側通訳をすべて排除して唯一人会議室に入り、ソ連側通訳を通してソ連側の交渉担当者たちと話し合った。そのために、日本側でこの時の会談内容を知る者は、河野以外には存在しない。河野を送り出した自民党の方針は「平和条約についてはソ連を無視する。喫緊の課題である漁業問題に限り事態の打開を目指して交渉する」であったが、上記の「秘密会談」の結果として、河野は漁業交渉から逸脱して領土交渉と平和条約交渉の再開をソ連と約束して戻って来た。自民党の指示に従わず無理に2島返還で裏取引を行って来た(「裏取引をしたはずだ」と皆が強く言う)のであるから、この河野の行為には、外務官僚出身であり鳩山や河野と同じ派閥であった重光なども激高した。もちろん、旧自由党系の吉田や池田などは怒り心頭に発する大反対であった。

2島返還論については、以上のように、「ただ、ソ連側がそうすれば領土を返すと言っているから」という以上の理由は何も存在していない。今回は、2島返還論メインの題材であるから、その後のいくつもの紆余曲折は省略する。最終的に日ソの交渉は日ソ共同宣言という形で「領土問題は棚上げ。国交は最低ラインで回復」ということに落ち着いた(少なくとも日本側の認識においては)。

河野は漁業交渉の後の平和条約の交渉にも参加し、他の日本側代表やソ連側代表の前で「日本にとっては利用価値がまったくない北方の4島など、手に入れても金がかかり困るだけだ。ただ、国内政治情勢・党情勢などがあるから、そう主張せざるを得ない」などとフルシチョフに話してしまっている。このため、ソ連側に領土問題を軽く見られることになった。鳩山と河野たちは、交渉の最終局面においてソ連側が「領土問題は継続審議」と共同宣言の文言に入れたことに大喜びし、モスクワの宿泊施設で祝杯を上げたために、ソ連側に全部を盗聴され「領土問題は継続審議」の文言を共同宣言の文章から削られたというような失敗もしている(ただし、日ソ共同宣言と同時に発表された松本-グロムイコ書簡により、補完的に、領土問題は継続審議すべき問題であることが日ソ間で確認されている)。自分だけの思い込みにより「北方領土には価値がない」と言い、領土交渉はしつこいくらいに自国の利益を主張するというヨーロッパ諸国の考え方を知らないまったくの外交の素人が、飛んでもない交渉の仕方をしたことになる。

このように、「2島返還論」というのは、「アメリカ憎し」で凝り固まった鳩山と河野が「アメリカが嫌だからソ連を厚遇すれば何とかなる」とソ連側の主張に飛びついただけの全く理屈の立たない主張でしかない。ソ連と密約して既成事実を作り、ソ連の力をテコにして大反対だった自民党の反対論者をはじめとした議会を理由なしに無理に引きずって行こうとして唱えられたこういう滅茶苦茶な主張に対してよく言われるのは、「ソ連が1島ならば返すと言えば1島返還論になるのか?」という批判だ。実際、当時の鳩山たちの2島返還論に対しては、非難轟轟の状態であった。まず、自民党の半分を占める親米路線の旧自由党系の議員たちは大反対をした。鳩山や河野と同じ派閥である旧民主党系議員たちも、半数は鳩山たちの方針に反対した。左右の社会主義勢力が統合されたばかりの社会党は社会主義国ソ連と親交を結べることには賛成したが、2島返還論については半分が反対した。自民党に対抗し理屈っぽい政策を言う傾向がある共産党は、2島返還論の理不尽さを強調して全党を挙げて反対した。共産党は自民党に対抗して「北千島までを含んだ千島全島の返還」を要求していた。その主張は、現在でも維持されている。つまり、当時の議会の中で2島返還論に賛成した者たちと言うのは、自民党の半分の半分と社会党の半分だけであり、その他の者たちは大反対の状態であった。そういう状態であったがために、鳩山は自分の主張を無理にでも通すために首相権限を用いてソ連と直接交渉し、モスクワへ出向いて日ソ共同宣言の調印まで行って来た。こうなってしまったために外交上の恥辱が残ることを恐れた議会は、日ソ共同宣言で領土問題について明記されていないことについては大きな不満があったが、ソ連と戦争状態を終え抑留者を帰還させるべきであるという部分の鳩山の主張に嫌々ながら賛成することになった。自民党の中では古参議員たちの説得により激怒していた吉田・池田の派閥も反対票を投じずに欠席するという形で何とかまとめ上げ、社会党も反対者を説得して全党で賛成票を投じるようにまとめられた。このような情勢に共産党も敢えて反対票を投じることはせず賛成に回った。こうして、日ソ共同宣言は領土問題を残した形で批准された。領土問題の解決は、本格的な平和条約が締結されるまで継続審議ということになった。

ちなみに、この時の話し合いによれば「(少なくとも4島について)継続的に審議を行う」はずであったのだが、ソ連はその後、日ソ共同宣言の文言を盾にして「2島ぽっきりで解決済み」として日本からの領土問題についての会話の試みを一切門前払いすることを1990年前後まで平然と続けた。ソ連が日ソ間に4島についての領土問題があることを公式に認めたのは、ソ連邦から多くの国々が独立してソ連が弱気になっていた1991年のゴルバチョフとの会談からである(以下参照)。

 https://www8.cao.go.jp/hoppo/mondai/04.html



日本には売国奴が巣食っていて、「もう、4島返還は望めそうもないから2島返還でよいはずだ」と主張する者たちがいる。それならば、理不尽に相手を押さえ込んだ強盗の天下になってしまうだけだ。

国際法上は日本100対ロシア0で日本側が徹底的に有利な立場にあるのだが、万が一4島が無理であると思考上で仮定した場合でも、それならば1島も返還を望まないでそのままにしておけばよいはずである。別に、それらの島々が戻って来なくともこれまでやって来れたのであるし、損をしてまで敢えてロシアと付き合うメリットは存在しないからだ。

こちらの側が有利な交渉において、万が一こちらが不利になると仮定してさえもそれならば放置しておけばよいものを、あろうことか、更に経済援助まで行った上で領土についても向こうに「お墨付き」を与えるように進言している者たちが多数存在する。そのような態度では、2島さえも返って来ないことだろう(実際、そうなりかけているのである)。

ウクライナなどは、約2世紀かけてロシアからの独立を果たした。彼らが祖国を失ったのは江戸時代である。国家の主権や領土問題というのはそれほど根深い物であるのに、たかだか70年で理不尽な奪われ方をした領土を諦め、さらに相手に「膨大な経済援助という利益まで与える」というのでは、気が触れているとしか思えない判断である。(おそらく、ロシア特有の買収策に引っかかった者たちが主張しているのだろう。)
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