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6、北方領土の歴史とおかしな人たち

未だにインターネット上には、北方領土についておかしな記述が転がっている。以下のページなどは、北方領土の歴史と言い条約の解釈と言い、とてもまともとは思えない。

 http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Yasashii.htm

上のページでは、たとえば、北方領土の歴史について古いブリタニカ百科事典を引いて次のように説明していたりする。

>世界で一番有名な百科辞典である『ブリタニカ百科事典』で調べると、英語で、次のように書いてあります。
千島には最初にロシア人が住み着いた。これは17、18世紀の探検に引き続いて行われた。しかし、1855年、日本は南千島をうばいとり、1875年には全千島列島を領有した。1945年、ヤルタ協定にもとづいて、 島々はソ連にゆずりわたされた。日本人は引きあげ、かわってソ連人が移住した。日本は、今でも、南部諸島に対する歴史的権利を主張し、 島々に対する日本の主権を回復するように、ソ連・ロシアを、くり返し説得している。

これは甚だしい事実誤認であり、今のブリタニカ辞典では以下のように改変されている(それでもまだ、「サンフランシスコ講和条約によりソ連に割譲された」などと親ソ的な間違った記述が目立つのだが)。

 https://www.britannica.com/place/Kuril-Islands



北方領土の歴史を振り返ってみる。

日本書紀には西暦658年に阿倍比羅夫が北海道の蝦夷と樺太の粛慎を征伐した記述があるそうだが、その真贋は定かではない。一般的に和人が蝦夷地と呼ばれた北海度に渡って暮らすようになったのは、鎌倉時代(1185年~1333年)の後半と言われる。その頃の蝦夷地にはアイヌやギリヤークと思われる諸族が入り乱れて存在し、互いに交易したり抗争したりしていた。当時の和人たちも、そういう諸勢力の中の一勢力でしかなかった。その後和人の進出地域は広がり、1457年の和人とアイヌとの間で起こったコシャマインの戦いでは、和人は余市や鵡川で戦ったことが記されている。(以下参照)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

戦いを鎮圧後、鉄器を有し優越する武力を有した和人は蠣崎氏の下に結集して道内のアイヌを次々に服従させて行き、1475年には道外の樺太アイヌからも貢物が献上されている。16世紀後半には蝦夷地全体のアイヌを抑えた蠣崎氏に蝦夷貿易の独占を許す朱印状が豊臣秀吉から与えられている。1599年に蠣崎氏は松前氏と姓を変え、藩政を整えて着々と蝦夷地経営を充実させた。「新羅之記録」によれば、1615年から1621年頃には根室地方のアイヌ(北方四島のアイヌ)が松前に来て貿易をしていたことが記録されている。また、この頃(1644年)幕府に献上されたのが「正保御国絵図」であり、そこには初めて「くなしり、えとほろ、うるふ」などの千島列島の名前が記されている。和人たちは漁師や金採掘者などとしてその時代より遥か以前から道内全域に広がっていたから、千島列島の存在を認識して利用したことは庶民の間では正式な記録よりも前から行われていたはずである。

部族の長を抑え蝦夷地をまとめた松前藩は、独占貿易により不平等な取引をアイヌたちに強要したため、次第にアイヌたちは不満を鬱積させるようになった。やがて、アイヌたちは1669年にシャクシャインの反乱を起こした。(以下参照)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

この反乱が鎮圧された後は、それまでのような各地のアイヌ勢力を和人が緩くまとめるという形ではなく、松前藩が蝦夷地全域をかなり直接的に支配するようになった。1715年の幕府への上申書には「北方領土が松前藩領として統治されている旨」が書かれていて、1754年には松前藩により北方領土に場所が開かれている。(以下参照)

 https://www.hoppou.go.jp/gakushu/outline/history/history1/

一方、ロシア人の千島進出はどうだっただろうか?

西洋人としては、オランダ人ド・フリースが1643年に最初に千島列島を発見した。ロシア人として誰が最初に千島を発見したのかは判然としていないが、ロシア人が千島を最初に訪れた時期はその数年後のようだ。そういう事情は、ロシア側について若干歴史を誇張しているような以下のページでも確認することができる。

 https://jp.rbth.com/travel/2017/07/28/813048

こういう説明から判断すると、ロシア人が千島列島を見つけたのは大体1650年代くらいの話ということになる。その後、ロシア人たちが千島列島に本格的に進出して行ったのは、1711年以降のことだ。(以下参照)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E5%9B%BD#%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8D%97%E4%B8%8B

そもそも、当時のロシアは沿海州さえも確保できず、1689年に清ロ間で結ばれたネルチンスク条約においても清国が樺太の対岸の地域を領有していた。(以下参照)

 https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/aa/d5839d63027e70d69d5bb657790be64b.gif

当時のロシアはやっとのことで樺太近海に探検隊を送っても、1809年に日本人の間宮林蔵によって発見されるまで「樺太が半島なのか独立した島なのか」を知ることさえできない状態だった。また、間宮が樺太に渡り調査を行ったときには、樺太アイヌたちは対岸の清国に貢物を贈っていたため、間宮もそれに便乗して対岸の中国官吏(東韃靼人)たちに会っている。ロシア人たちは清王朝が支配した沿海州や樺太からの南下を諦め、カムチャッカ半島方面からの南下を重視するようになったと言われている。ロシア人たちは、1711年に初めて千島列島最北端の島である占守島に本格的に足を踏み入れてから千島列島の南下を続け、1780年頃から頻繁に北方4島にも来訪するようになった。そして、日本に開国するようにしきりに強要したが、日本側が無視したため、何度か北方領土周辺の日本側拠点を襲撃して圧力をかけたりしている。樺太にも少数だが既に日本人たちが存在していて、そこもロシアの襲撃を受けた。4島以北の島々にも少数の日本人たちが存在していたが、ロシアの遠征によりたびたび捕らえられてロシア本国に送られ、厚遇されて日本語教師にされたりもしている。その後も千島列島において日ロの紛争がたびたび起こったので、幕府とロシア政府は1855年に日露和親条約を結び、国境を4島の北に設定した。



以上のように、千島列島における日本とロシアの歴史を見てみれば、どちらが先に千島に進出して自国民の生活の場としていたのかは火を見るよりも明らかだ。細かい両国の歴史を見なくとも、総論的に常識的に考えても、ロシア人のウラル以東への遠征が本格化したのはコロンブスが新大陸を発見した後(1492年)だから、その時から数千kmのシベリアを渡って極東に達するまでに長年月を要したことは容易に想像がつく。新大陸でインディアンを征服して行ったようなものであり、ロシア人の遠征隊もたびたびシベリア原住民たちにより襲撃されている。それに比べて、鎌倉時代から日本人が進出していた土地の隣の土地である千島列島は、発見も支配も日本人の方がはるかに早かったのは当たり前のことだ。

さて、冒頭に引用したウェブページでは、これをまったく逆に書いているのはどうしてなのか気になった。そして、ウェブページで参照している文献の著者たちを見て納得がいった。それらの著者の内の一人は「北朝鮮学」が専門のようであり「朝鮮戦争は、先に南朝鮮が仕掛けようとしたために仕方なく北朝鮮が先攻した」と主張し、ソ連のグラスノスチ政策により情報が公開されるまでは自説を譲らなかった人物である。また、慰安婦問題についても、政府委員として「まったく証拠がない」という他委員からの指摘にも関わらずに「慰安婦の強制連行は存在した」と独断して強硬に政府の方針を決めた人物でもある。他の著者について見ても、南京虐殺の犠牲者数を20万人としていたりする。(ちなみに、私も南京虐殺は有ったと思っているが、その規模はもっと小さかったはずだと認識している。)これらの人たちは、以上に説明したように歴史事実だけを見てもおかしな意見を言っているのだが、条約の解釈についてもソ連の理屈の立たない主張をそのまま受け売りして書いているだけであり、まったく条約の解釈になっていない。条約の話についてはすでに以下で説明したことであるから、ここでは指摘しない。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-05

こういう人たちがいて変に政府を煽るために、北方領土問題について政治家が冷静な判断を行えなくなる一因となっているのではないだろうか? 右翼の煽りは迷惑なのだが、左翼の暴論も冷静な議論において迷惑でしかないと痛感している。
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