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ロシアの経済的事情

最近、ロシア側が、北方領土に関して何かと日本側を刺激する行動をとっているようだ。

 https://digital.asahi.com/articles/ASM3D5HWPM3DUHBI027.html
 >ロシア、北方領土で軍事演習 500人規模、軍用車両も
 https://jp.reuters.com/article/ru-internet-idJPKCN1QF309
 >ロシア、北方領土の3島に高速インターネット網構築…
 http://news.livedoor.com/article/detail/16096816/
 >露、北方領土開発へ 1兆4千億円規模で特区拡大計画露、北方領土開発へ 1兆4千億円規模で特区拡大計画

このうちの経済開発について、最初に考えてみる。

まず、ロシアにおいて北方領土を管轄している極東地域について概観すると以下のようになる。

ロシアの国土は、西三分の一のヨーロッパロシアと呼ばれる地域、中央三分の一の主にシベリアと呼ばれる地域、東三分の一の極東と呼ばれる地域から成り立っている。これら三つの地域の人口比は、大体以下のようになっている。

 ヨーロッパロシア:シベリア:極東
     110 : 30 : 6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E9%80%A3%E9%82%A6%E7%AE%A1%E5%8C%BA

ヨーロッパロシアから見れば、極東ロシアというのは数千km離れた人口の少ない僻地でしかない。ヨーロッパと極東との間には広大なシベリアが広がっているため、シベリア鉄道や最近整備されたシベリア横断道路などが存在しはするが基本的には途中に広大な通行不能の海洋が広がっているようなものであり、東西両地域が経済的に結びついて活発に物をやり取りできるような状況にはない。だから、極東ロシア経済はヨーロッパロシア経済とは別に独立独歩で採算を立てなければならない状況にあるが、主要な産業がないため長く独り立ちできない状態が続いていて、ヨーロッパロシアから取り残されて開発が行われないできた(そういう事情は、中央ロシアのシベリア地区も極東よりかはだいぶましではあるがほぼ同じだ)。ロシア極東地域は、日本では「僻地」と言われる知床地域などの何十分の一の人口密度しか持たない。ロシア極東地域は日本の国土の十数倍の面積を持つが、そこに住んでいるのは千葉県の人口とほぼ同じ620万人くらいだから、いかに広大な地域にいかに少ない人々が住んでいるのか理解できるだろう。このように極東地域は産業がない上に人口が極度に少なかったため、ヨーロッパロシアからの「寄付金」に頼るしか手がない状態であり、ソ連邦時代からずっと金を食い続けて来た極貧状態のお荷物の地域だ。その極東地域の東端に千島列島がある。

さて、意外に知られていないが、ロシアという国の経済と国家予算の規模は日本よりはるかに小さい。たとえば、ロシアの国家予算は30兆円前後であり、この中から7兆円くらいが軍事費として消えていく。だから、実質の民生に使える予算は23兆円くらいだ(以下参照)。しかも、今はウクライナ問題で世界から経済制裁を受けているため、そうでなくとも苦しいロシア経済はさらに苦しい状態にある。

http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11019010_po_02740107.pdf?contentNo=1

そのような民生に使える予算が23兆円の国が、1.7兆円の投資を極東地域の大陸部に行わずに極東地域のさらに先の島々に対して行うそうだ。日本の場合に当てはめて考えてみれば、国家予算100兆円(軍事費5兆円、民生用予算95兆円)の中から7兆円を出してソロモン諸島より先の島々に投資をするということになる。仮定の話として、もしもソロモン諸島が日本領であったとして、それらを7兆円かけて開発したならばどうなるだろうか?現状では漁業くらいしか興せないはずだ。そこで獲れた魚は上述したよう極東からヨーロッパロシアに持って行って売りさばくことなどできない。だから、日本とソロモン諸島の関係に当てはめて考えた場合、捕れた魚はオーストラリアなどの現地の国々に買ってもらうくらいしか手がない。現在の日本は他の国々に対して非道なマネをしていないため経済制裁を受けていない状態だから、獲れた魚をオーストラリアなどに買ってもらうということが可能かもしれない(その場合でも、魚やカニなどを売った額など微々たるものであり、投資した7兆円分の元を取ることなど明白に不可能だが)。しかし、今のロシアは経済制裁を受けているため世界から相手にしてもらえない。ましてや、開発を行い怒らせた日本が獲れた魚などを買ってくれるわけがない。もちろん、漁業以外の産業を興こすことはもっと絶望的だ。例えば、各種産業が存在する上に観光でも有名な北海道のように観光で食べていくことができるだろうか?それはうまく行くわけがない。なぜなら、観光で人を呼ぼうにも、北海道のような札幌や旭川などの大都市がない単なる未開発の大自然だけの島々に開発費に見合うほど観光客が行くことがないのは火を見るより明らかだからだ。ロシアにとっては、北方領土で産業を興こすことなどできない。つまり、ロシアにとって北方領土の開発は、はっきり言って「無駄」でしかない。そういう「無駄」に、日本の面積の十数倍はある極貧状態の大陸の極東地域を放っておいて金をかけるというのだから、是非にやっていただきたいものである。

今のロシアには大した産業がないために、経済活動や国家予算の多くを石油とガスに依存している。しかし、今のロシアには金がないから、油田やガス田開発などをうまく行えない。経済制裁を受けているために、ロシアの外貨獲得にとって唯一の頼みの綱である油田とガス田の開発が行えないのだ。そうでなくとも油田・ガス田開発のための資金などなかったために、日米英欄などの企業に鉱区を売って開発させ、生産分与により上がりを吸っている状態だ。油田・ガス田は一つの井戸ではすぐに枯れてしまうため毎年次々に生産地域内で生産拠点を移動して開発を続ける必要がある。今のロシアでは経済制裁によりそれができないのだから、やがて生産量がどんどんと落ち込んでいくこと必定だ。そういう窮状にある国が莫大な無駄な投資をすると言っているのだから、そういう行為は「はったり」でしかない。

大局的に見てみても、今のロシアは切羽詰まっているはずだ。ロシアがなんとか石油やガスの生産を継続できたとしても、今から16年後の2035年頃には核融合の実験商用炉が現れるだろうと言われている。そして、そこからさらに10年経った2045年ごろまでには、普通の商用炉が運転を始めるだろうと言われている。核融合炉というのは、今の原子力発電が用いている核分裂炉とは原理が異なりはるかに安全だ。だから、明白に、核融合炉は将来のエネルギー産業の基幹方式となって行く。その場合、核融合炉のエネルギー源は自然界の水の中に一定程度存在する重水などであるから、自然界から水を取って来てそこに一定程度含まれる重水などを分離するだけでエネルギー源が得られることになる。つまり、あと十数年から二十数年後の社会においては、産油国のアドバンテージなど消えてなくなるのだ。

今のロシアというのは、ソ連邦時代に閉鎖的な環境下で西側の経済発展から取り残されたために、各種産業が立ち行かなくなるくらい遅れている。自動車、精密機械、半導体、コンピューター、食品産業、etc.etc.が旧西側諸国の企業に依存している状況だ。鉄やコンクリートなどのソ連邦時代からの重厚長大産業は健在であり軍需産業は相変わらず世界トップレベルの技術を誇っているようではあるが、それだけでは渡っていけない社会・時代になっている(ソ連邦時代の自給自足経済体制に逆戻りしたのならば、政権が倒れること必定だ)。だから、ロシアは石油・ガスなどのエネルギー産業以外の産業を立ち上げようと必死になっている。ところが、どれも成功していない。それは、当たり前の話だ。旧西側諸国の企業が4,50年の間必死になって技術開発や商品開発を行ってきた傍らで、一人歩みを止めて停滞していたのだから。資本の蓄積と技術の蓄積が行われ更に食い合いによる統廃合により超巨大企業が出来上がっている分野に、今さら技術を持たない中小規模のロシア企業が新規に現れて太刀打ちできるわけがない。ロシア以外の先進国の企業においてさえ、必死になって経済競争を行って来ても、いくつかの分野で敗れて資本と技術の蓄積が必要な分野には二度と戻れなくなっている。巨大な資本と技術力を掛けて最先端のしのぎ合いを行っている企業でさえ経済競争において厳しい状況にあるのに、ましてや、4,50年も遅れている資本も技術力も持たない勢力が割り込めるとは思えない。ロシアのこの状況が、核融合における2035年の実験商用炉の稼働や2045年の実用炉の稼働までに自然に改善するわけがない。そして、そのように他の産業が興っていない状態でエネルギー資源への需要が減って行くと、ロシアは永遠に二流・三流国の中に沈んでいくことになる。

つまり、時間を切られているのはロシアの方なのだ!

そうならないためには、今のロシアにはどうしても金が必要だ。タイムリミットまでに金を稼いで各種の開発を行いたいはずだ。各種インフラを整え、エネルギー産業以外の自国産業を興し、農業や食品産業などの既存の産業の強化も行いたいはずだ。ところが、今のロシアは、世界からの経済制裁により金を稼ぎ難くなっている。そういう状況下で、日本は今年に入って以下のようにロシアからの石油やガスの輸入量を減らしている。

 https://jp.sputniknews.com/business/201903055998891/
 >2019年の初めから日本はロシア産石油の買入量を一気に40.5%
 削減した。また液化天然ガス(LNG)の輸入も前年同時期比で7.6%
 減少した。一方で米国の炭化水素の輸入は急増。石油は328%、LNG
 は36.1%増加している。

ロシア極東の経済規模は非常に小さい。ロシアという国家予算が日本の三分の一、経済規模が日本の二分の一くらいの小さな国の中で、さらに西部地区の数分の一という経済規模しか持たないのが極東地域だ。日本は数年前に、この非常に小さな経済規模の地域からの石油やガスの輸入量を大幅に増やした。民主党政権時代に日ロ関係は冷え切ったが、自民党政権に変わったとみるやプーチンの方から安倍にすり寄って来て経済協力が進んだためだ。その結果、千葉県の人口くらいしか住んでいない極小の経済規模の極東地域に、日本からだけで毎年1兆円前後の貿易黒字が発生するようになっていた。それまで何も産業がなくお荷物状態だった極東地域において、2000年代からガス・石油の輸出が強化され、2012年の安倍プーチンの時代になってから一挙に輸出量が増えて行った。極東全体ではまだ人口が減りかけていたりするが、一部の油田・ガス田地帯の周りでは経済が潤い成金が続出している。極東地域は、地理的要因のためにヨーロッパロシアと物資の大々的なやり取りをできないが、代わりにヨーロッパから離れた日本、韓国、中国などへのエネルギー資源の輸出により何とか独り歩きをできるようになりかけている。そして、潤った極東地域が経済的発展を背景に強気な態度に出て、領土交渉においてはロシア極東の民意が国粋主義的になっていた。

日本は、領土交渉がうまく行きそうに思えた昨年9月以降、経済制裁により減ったガス・石油の輸入量を一挙に増やした。ところが、ロシアが領土問題で屁理屈を並べて強硬姿勢を示したためだろうが、日本は年頭から輸入量を激減させている。しかも、輸入先を米国に切り替えている。こういう状況下で行われたのが、冒頭に引用した記事の「軍事演習」や「経済開発」の話だ。今のプーチンの一番の関心ごとは、ロシア経済の話だ(以下参照)。

 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40896350V00C19A2000000/
 >ロシア成長率2%台止まり、プーチン政権に逆風
 https://jp.wsj.com/articles/SB12479105983883464394704585197761025137670
 >プーチン人気衰え、支持基盤の地方に生活苦と失望

何とか日本に金を出させようと画策して各種の動きを起こしているのだろう。だから、日本に対し以下のように強気な態度に出ている割には、必ず経済的な話がついて回っている。

 https://www.huffingtonpost.jp/entry/putin-peace-treaty-japan-and-russia_jp_5c8c9b83e4b0d7f6b0f3bfad
 >平和条約交渉、プーチン大統領「失速している」と発言か 地元紙も
 「ロシアは島を引き渡すつもりはない」

ロシア側の公式な発言においても「日本はアメリカ主導の経済制裁に加担するべきではない」「日ロの経済発展にはもっとポテンシャルがある」「領土問題を話すほど日ロの結びつき(経済関係)が出来上がっていない」などという主張がほとんど必ず付け加えられていることから、今のロシアは経済について非常に気にかけていることが分かる。

日本は、これまでに散々にソ連やロシアに裏切られて来た(その事情は追々書くと言ってまだ書いていないが)。プーチン自身もロシア経済が非常に弱かった2000年頃には「4島について議論する」と署名までして日本側と約束した。ところが、誰のおかげでロシア経済が良くなったのかも理解せずに、ロシアの経済的な状況がよくなると「領土問題は存在しない」と態度を180度転換した。そういう国に対しては、今は「大安売り」をした上に義務も必要もない経済援助を行う言われなどないだろう。日本に対して理屈の立たないめちゃくちゃを言いたい放題言い、都合が悪くなると鉄のカーテンの向こう側に貝のように閉じこもって完全シャットダウンを繰り返した「舐め切った」ソ連時代の「政策」が通じるとでも思っているのだろうか。アメリカによる経済制裁を利用し日本側の最後の一押しによりロシアの政権を一度潰しておけば、ロシアという国の政権において極東の日本に対する見方が変わり、「軽く見ていい加減なことを言い、都合が悪くなると完全に無視をすればいい」などということは、次の政権では絶対に行えなくなるだろう。まだいくつか外交手段は残されているようだからいきなりそういうきつい経済制裁を行うことはないだろうが、ロシアが舐め切った態度での対日外交を続けるのであれば、最終手段として日本側も今の「緩すぎる」と旧西側諸国から批判されている対ロ経済制裁の引き締めを検討する必要があるだろう。
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北方領土についてのロシア側主張のおかしさ

ソ連やロシアは北方領土についていくつか主張を行っているが、いずれの主張にも正当性はない。北方領土に対するロシア側の主張をきちんとまとめた物が現在ではネットに提示されなくなって来ている。ソ連の権益を継受したロシアは「(ソ連邦時代に)解決済み」と自信をもって誤解した状態であり、北方領土問題の内容を詳細に検討していないからだ。そのため、問題の根本を掘り起こすと、前回指摘したようなソ連邦時代に言われた滅茶苦茶な主張が依然として「正当な解決済みのもの」としてまかり通っている。ソ連側の主張は、サンフランシスコ講和条約や日ソ共同宣言に関係していくつか書いたが、ここではネットに転がっているソ連邦時代から継続しているロシア側の主張についていくつか見てみようと思う。



まず、ソ連邦時代からの典型的な主張としては、以下に現れるように「ヤルタ協定」を根拠としたものがある。

 (1) http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/RussiaKunashir/HenkannFuyouron.htm
 >イーゴリ・ロガチョフ ソ連外務次官
   「イズベスチヤ」一九八九年四月二十四日
…戦後日本の領土主権に関する最重要文書は、ヤルタ協定(一九四五年)である。同協定で,クリール列島のソ連割譲」が直接規定されている。…

ヤルタ協定というのは日本に知らせずに秘密裏に米英ソの間で結ばれた秘密協定であるから、領土の割譲に関する国際法上の正当性を何ら保証しない。普通に考えてみれば、当事者の知らない間に第三者同士が秘密協定を結び「私にこうしてくれるなら当事者の権利を取り上げてあなたに差し上げる」と約束することは「強盗行為」や「侵略行為」そのものであるのだから、「この戦いは利得や領土拡大のためではない。日本の侵略行為を正すための戦いだ」とカイロ宣言やポツダム宣言で強調した米英が公の場でヤルタ協定を推すことはできない。実際、ヤルタ協定に関係した3国のうち米英2国は既にその正当性を否定しているから(以下(2)参照)、ヤルタ協定が有効だと主張しているのはソ連だけという状態だった。つまり、ヤルタ協定はソ連の説明と180度異なり、国際社会では何の意味も持たないのだ。そういう事情は既に以下で説明した。

 (2) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01

上記(1)のロガチョフの主張においてはヤルタ協定に関係してサンフランシスコ講和条約についても以下のように主張しているが、これも正しくない。

 (3) >…ヤルタ協定とその合意事項は、一九五一年のサンフランシスコ
    講和条約で確認され、…

実際、サンフランシスコ講和条約の条文作成に貢献した主だった締結国である米英仏は「同条約において、千島列島を日本からソ連に向けて割譲させたという認識はない」と述べている(以下(4)参照)。これは、日ソ共同宣言の交渉時に日本から米英仏に対して事実確認を行ったときの三国の回答である。

 (4) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04

また、サンフランシスコ講和条約では、ソ連を念頭において「非締結国はこの条約からいかなる形でも利益を引き出してはいけない」と規定している(以下(5)参照)。

 (5) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
 >第二十五条
 この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二
 十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合
 に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二
 十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国で
 ないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるもので
 はない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいか
 なる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のため
 に減損され、又は害されるものとみなしてはならない。

この第25条によれば、ソ連やロシアは「(領土問題をソ連やロシアに有利に導くために)日本が千島や樺太を放棄した」と主張することが一切不可能になる。なぜなら、日本が千島や樺太を放棄した条約はサンフランシスコ講和条約ただ一つにおいてであり、そのただ一つの条約をソ連やロシアは第25条のためにどのような形においても利用してはならないからである。第25条は約50カ国が集まって作り上げた重要な国際条約であり国際社会における重要な約束事であるから、ロシアもこの条項は順守しなければならない。それを無視してサンフランシスコ講和条約から都合の良い一部だけを自国の利益のために引用するのであれば、多くの国々が同意して作り上げた国際条約に公然と違反することになり、ロシアが無法者国家の烙印を押されることになるだけだ。ドイツ最終規定条約のように国際社会において複数国で話し合うことを絶対的に嫌がり、日ロ2国間交渉に拘泥したのはソ連とロシアであるから、日本側にこのように主張されてもロシアは何も文句を言えまい。1950年代というまだ戦争が終わったばかりであり国際社会における対日感情が非常に悪かった時代には、敗戦国日本が堂々と第25条を盾にして「貴国ソ連にそう主張できる権利はない」とは言えなかった事情が存在する。しかし、今でもそういうソ連邦時代の無謀で国際法に堂々と違反する主張が通用するとは思わないことだ。金科玉条のようにサンフランシスコ講和条約を引用して何かの利益を主張するという違法行為はもう通用しないのだ!各種事情により歪んでしまった話を元に戻して、論理的に「法と正義」の観点から領土論を論じることのみが、日ロ両国の未来の発展をもたらすということを理解するべきだ。

以上をまとめると、ヤルタ協定は侵略的密約であるから、国際法上は否定されるだけでありなんらの保護も受けないし保証もされない。また、ヤルタ協定について密約相手の米英により既にロシアの主張は否定されていてロシア一国がその有効性を主張しているだけの状態であるから、そういう意味においてもロシアの主張するような「国際的な承認」など微塵も存在していない。

さらに、サンフランシスコ講和条約については、ロシアが同条約を引用して何かを主張することを行ってはならない。ロシアの好む「国際社会を否定した二国間交渉」においては、ロシアは「日本が千島や樺太を放棄した」という根本も根本の部分から条約的なロシアの正当性を説明する必要があるが、それは、上述したように神仏でも不可能なことだ。

以上説明したように、ソ連やロシアは「国際法的解釈」や「国際社会における承認」などについて実にバカバカしい主張を繰り返して来た。上述した例以外にも、ソ連は、日本固有の領土について保障したカイロ宣言とポツダム宣言から条文の一部だけを切り出して非論理的な逆の主張を行った。また、占領軍が「一時的に」として「この命令は最終的な領土を定めない旨」を警告した上で発したSCAPIN677号の一部だけを切り出して自国に都合がよい主張も繰り返した。ソ連が北方領土の不法占拠についてそのようなバカらしいレベルの滅茶苦茶な主張を行っていたことについては以下でも説明した。

 (6) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04

ソ連はそういう滅茶苦茶な説明の数々を問答無用で主張し続け、日本が何か言うと鉄のカーテンの向こう側に閉じこもり「完全に無視すること」を繰り返した。ソ連からロシアに代わっても全く理由の立たない屁理屈を次から次へと目先を変えては主張し、日本側とまともに交渉しようとしていない。例えば、最近においてもラブロフは「国連憲章の敵国条項についての不正確で意味をなさない引用」などを行っている(以下参照)。

 (7) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-05

ロシアは、自分たちの先輩たちが行った問答無用の無茶苦茶な主張を「正しい既成事実」と勘違いして領土論を展開しないことだ。



以上、ロシアの北方領土占領について条約上の根拠がまったく、何も、皆無に存在していないことを説明した。後は余談として、ソ連やロシアの側の歴史認識についても誤りがあること、また、どうやったらそう考えられるのかと思えるくらい論理展開に無理があることを指摘しておく。

 (9) (上記(1)発言から)
 >しかし、ロシア人探検家が、十七世紀前半の時代から北太平洋
  の島々を含む極東の新しい土地を発見したことは、歴史資料が
  証明している。十八世紀、南部を含むクリール列島の全島がロ
  シアに属していた。

上に書かれた「歴史」が全くのでたらめであることは、以下を読んでいただければわかることだろう。

 (10) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-06

日本人は16世紀末までには蝦夷地全域を緩く支配し、その結果、17世紀初頭には根室を拠点としたアイヌ(国後や択捉を支配したアイヌ)が北海道西部に来て交易をしていた状態だ。北方領土の支配も17世紀後半から18世紀初頭に終わっていて幕府に報告書が出されていた。ロシアは、その頃になってやっとのことで誰も行きたがらない極東地域に囚人兵を送り込み、南千島から数百kmも離れた北千島の最北端において原住民のアイヌたちと抗争を始めたばかりだった。そこから更にアイヌたちを切り従えて南千島まで数百km南下して来るまでに数十年もかかっている。そして、幕府が既に番所を置き数百人の役人を配置し、民間人も大量に入り込んでいた南千島の択捉島を軍艦で攻撃し、樺太などの日本人居住地域も攻撃して侵略的行為を行った。ロシア人には「どちらが元々住んでいて侵略を受けたのか?」ということが理解できていない。その結果、文句のつけようのない完全な「日本の財産」に対して「(日本が侵略をして煩いから)江戸時代に恩恵的に日本に譲ってやった(だから返すのは当然だ)」という主張を行っている。こういう間違った歴史認識の上に、以下のようなサンフランシスコ講和条約案作成時にも行われた非論理的な主張がそれから40年ほど経った時代にも平然と繰り返されている。

 (11) (上記(1)発言から)
 >しかるにその後、日本は領土拡張主義に乗り出し、結局は日露
  戦争の勃発と日本によるサハリン南部の奪取という結果になっ
  た。これにより、国境線の画定に関する両国の協定は、すべて
  御破算になってしまった。

上記のように「サハリン(樺太)南部の奪取」と言うからには、「サハリン(樺太)がロシアの物であった」という証拠が必要だ。沿海州を含む樺太周辺は、1689年のネルチンスク条約から1858年の璦琿条約まで中国の領土だった(以下参照)。

 (12) https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/aa/d5839d63027e70d69d5bb657790be64b.gif

だから、ソ連が「樺太はソ連の物だ」と言うためには、何処かで領土の切り替えが行われていなければそう言うことができない。そういう国境線の変更・確定は、1875年の樺太・千島返還条約により初めて行われた。もともと樺太には樺太アイヌなどが住んでいて大陸アイヌを通して沿海州の中国人たちに貢物を送ったりしていたが、日本人とロシア人は、中国の清朝が弱り周辺領域の管理を行えなくなったことに乗じていつのまにか江戸時代から樺太に住み着くようになった。そういう事情は、清が璦琿条約により正式に沿海州をロシアに割譲した後も続いた。この頃の清朝は、周辺地域を管理する余裕は江戸時代よりも更になくなっていたため樺太に口を出せる状況ではなかった。そこで、実際に自国民が住んでいて権益が存在した日本とロシアで樺太の帰属を決める話し合いが持たれた。その結果、上述(10)でも説明したことだが、1875年に樺太・千島交換条約が結ばれロシアは樺太を得る代わりに日本は北千島をロシアから譲り受けた。

つまり、1875年の条約によってはじめて「樺太はロシアの物だ」と主張できることになる。

そういう事情を考えながら上の(11)の主張をよく見ると、ソ連は「樺太を奪われた」「樺太はロシア領であった」と主張するときには1875年の条約に依拠していることになるのに、日本の北方領土への主張については「1875年の条約は無効になった」と主張している。つまり、ソ連の主張は自家撞着・矛盾を起こしている。このように、ソ連の主張にはいたるところに非論理性がみられるため、そういう非論理性の上に作られた主張は全て意味がない。

こういうめんどくさい事を考えなくても、歴史上確認できるようにそもそも「日本の財産」であったものが「御破算」になることなどあり得ないのは火を見るより明らかだ。(ロシアという国は他者の財産権というものをどのように考えているのだろうか?)

このように、北方領土問題について非論理的な発言をするロシア人はネットにも結構存在している。以下の例にも、非論理的な主張を見ることができて面白い。

 (13) http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu23.data/Tkachenko_B_I.pdf

このロシア人の主張も、御多分に漏れず「ヤルタ協定」や「サンフランシスコ講和条約による千島の放棄」をロシアの千島領有の根拠としていたりするが、それらについては上述したから、この作者だけに見られる非論理性を見てみよう。

 (14) (上記(13)から)
 >したがって、クリル列島南部の一部を除いたクリル諸島および
  南サハリンに対するロシアの主権を承認した二国間の平和条約
  が露日間で締結されれば、上記のサンフランシスコ平和条約第
  26 条が自動的に効力をもつようになり、クリル諸島および南
  サハリンに対するロシアの領土獲得権は日本を除いた同条約の
  当事国にも適用されてしまう。…恐らく、このケースでも共同
  統治のシナリオが展開され、日本が何も獲得することはないで
  あろう。

サンフランシスコ講和条約第26条というのは、以下(15)のように「日本は、日本から見た旧敵国の一部に特別に有利な条件を与えて平和条約を結んではいけない」という規定だ。この条項は、日ソ共同宣言の条約交渉時にダレスが日本に向けて「国後や択捉などの日本固有の領土をソ連にくれてやるなら、第26条により米国も日本固有の領土である沖縄がもらえるはずだ」と主張した際に使われた。

 (15) http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19510908.T1J.html
 >第26条
 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しく
 は加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に
 第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条
 約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は
 実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべ
 きものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効
 力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、
 この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和
 処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、
 この条約の当事国にも及ぼさなければならない。

さて、この条項によれば、日本が「与えるのではなく与えられる」のであれば何も問題がないことになる。サンフランシスコ講和条約において日本が放棄したことになっている北方領土の4島に対し、ロシアが日本に返還しても日本から他国に対して何かの権益を与えたことにはならない。というか、条文の意味を理解せず下手に「サンフランシスコ講和条約に規定された平等」を主張するのであれば、もしもロシアが4島を返還した場合「ロシアが認めて北方領土を返還したのだから、米英蘭等もロシアによる北方領土の返還を認めろ」とわざわざ日本側の立場を応援してその他の国に対して説得する作業までロシアに負担してもらえることになる(笑)。そういう冗談は置いておいて、第26条が存在しても日本側にとっては何も困ることがないのであり、北方領土がすんなりと返還されるだけで終わる話だ。このように、なんでもよいから何か屁理屈を主張して北方領土の返還を拒むのはロシア人の常とう手段だ。

ちなみに、この著者は「日ソ共同宣言」の文言についても変なことを主張している。

 (16) (上記(13)から)
 >共同宣言第9条の内容からすれば、両国は前掲の歯舞諸島および
 色丹島をソビエト連邦が所有する領土と見なしていることは明らか
 である。ソ連はこうした領土を、「日本国の要望にこたえかつ日本
 国の利益を考慮して」、すなわち善意の印として、互いに取り決め
 られた条件に基づいて、日本に「返す」のではなく、「引き渡す」
 こと(贈与行為)に同意している。明らかなのは、贈与されうる(
 引き渡されうる)のは、所有者が所有権を有して実際に持っている
 物のみである

この主張は「領土問題が存在することを松本―グロムイコ書簡を公表することにより確認する。その代わり文言は譲る」とした交渉の経緯を忘れた主張でしかない。また、法律的には物には「所有権」と「占有権」が存在するということも理解できていない。日本は所有権について譲った覚えは一つもないのであるから、ロシアが占有権を譲って退去すれば、日本側にとって何も問題がないことになるのだが。



以上のように、北方領土に対するソ連やロシアの主張というのはどれも滅茶苦茶であって全く根拠が存在していない。こういう理由なしのごり押しを何十年も続けているうちに、ロシア人たちも「根本部分が理由・根拠のないごり押しである」ということを忘れてしまい、自信をもって「正当な既成事実である」と錯覚している状態になっている。返還交渉においては、まず、しつこいくらいに向こうの主張の事実を誤認している部分と非論理的な部分を突いて、向う側に「理不尽なことをしてしまった」という反省の念・後ろめたさを発生させることが必要なはずだ。そういう説得の仕方が、諸事情によりうまく機能していないように思えるのだが。


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日ロの国際環境の変化

日本側には、まるでソ連やロシアの操り人形のようにおかしな意見を言う者たちが存在することは以下で指摘した。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-06

そういうおかしな者たちに騙されたのだろうが、日本の政治家にもおかしな意見の尻馬に乗っていい加減な主張をしている者たちが存在する。たとえば、以下のように主張している鈴木宗男がその典型だ。

https://dot.asahi.com/wa/2019021300081.html?page=2
>「戦中、戦後の国際的な手続きに基づいて正当に領土になったというロシアの主張は正しい。カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言などを踏まえて、北方領土は画定されたのです。

鈴木の上記発言は全く意味をなさない。カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言については既に以下で説明したから読んでいただければ、上記発言が全くのでたらめであることが明白にわかるはずだ。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-05

鈴木は、「日本側が正しいとしか言いようがないこと」を交渉のテクニックとして主張を控えているのではなく、本心から「ロシアにのみ根拠があり日本には一理もない」と考えているのだから呆れ果てたものだ。このようなでたらめな発言に加えて、鈴木は以下のようにも主張している。

>「ロシアとの領土問題交渉の基礎となるのは、1956年の日ソ共同宣言(以後56年宣言)です。平和条約締結後に、歯舞群島と色丹島の2島を日本側に引き渡すというものです。…松本さんの名著『モスクワにかける虹』を読めば、歴史的経緯がよくわかります」

鈴木が引用した松本俊一の本には、鈴木の説明とは全く違う日ソ共同宣言の交渉過程が書かれている。そこには、鈴木の主張とは真逆の「4島どころか千島全島に加えて南樺太まで考慮すべきだと日本側が主張していたこと」が記されている(以下参照)。

 「日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実 松本俊一 著 佐藤優 解説」P.203より

 八、 一 九五五年八月十六日日本側提出の条約案
       :
 第 五条 一 戦争の結果としてソヴィエト社会主義共和国連邦によつて占領
    された日本国の領土のうち、
 (a) 択捉島、国後島、色丹島及び歯舞諸島については、この条約の効力が
    生じた日に 日本国の主権が完全に回復されるものとする。
 (b) 北緯五十度以南の樺太及びこれに近接する諸島並びに千島列島につい
    ては、なるべくすみやかにソ連邦を含む連合国と日本国との間の交渉
    によりその帰属を決定するものとする。

当時の国会では保守革新ともに上記の案が大多数を占め、それ故に、全権たちが引くに引けなくなって条約交渉が暗礁に乗り上げた。そして、弱気になった全権たちが今度は「2島だけ」でソ連と手を打とうとして日本が内密に米国に相談した時、米国のダレスによって恫喝されたいきさつが書かれている。結局、日本は、米国に言われるままに上記日本側案から「北千島、南樺太」を除いた人為的でいびつな妥協案をソ連に対して主張することになった。そして、領土については画定させずに条約ではなく宣言という一段緩い形で準平和条約を結ぶことになった。

鈴木は、上記の本のどこをどう読んだのだろうか?

当時の日本側は、鈴木の言うような2島返還ではなく、4島以上の返還を強硬にソ連に対して主張していた。カイロ宣言で「日本が平和的に得た領土は保障する」と日本に約束した米英ソが約束を違えて千島列島を日本から取り上げたのだから、日本側としては当然の反応と言えるだろう。まだ弱かった明治時代の日本が樺太をロシア帝国の恫喝の前に泣く泣く諦めて痩せて狭い千島列島を押し付けられた経緯を無視し、その千島列島さえも難癖をつけて奪ったのだから、当時の日本人たちの反発は尋常ではなかったことを理解するべきだ。当時の日本人たちは、条約的根拠が一つも存在していないソ連の千島占領に対して強烈な熱意をもって「全千島を返せ」と主張していた。条約的には日本に100%の根拠がありソ連には一つも根拠がなかった。そこがソ連だけではなく、カイロ宣言を反故にして理由なく日本に千島を放棄させた米国の弱みでもあった。だからこそ、日ソ共同宣言の交渉時に米国は日本に対して以下のように提案したのだ。

 米国案1 「歯舞・色丹だけを主張して、千島列島は国際会議にかけろ。
       ただし可能性は低くなる。(他国は応援しないだろう。
       米国も応援し難い)」
 米国案2 「4島だけを主張して、その他の千島列島は諦めろ。」

この米国の提案は、ダレスの恫喝が行われる一年前に既に日本側に提示されていた。この案によれば、いずれにしても、南樺太はおろか4島以北の千島10数島に対する返還要求を日本側は諦めることになる。そして、実際に日本はそうさせられ、米国案2によりソ連に対して全千島20島の返還要求から4島返還のみを主張するように態度を変更した。その譲歩も譲歩した4島返還の要求さえソ連が拒否したため、1956年当時の交渉においては「領土については保留、その他については合意」という形になっている。どこに「日本人は2島のみの返還で納得していた」などという話が出てくるのだろうか?当時、「2島のみ返還」を主張したのは、自由党と民主党が合併してできたばかりの自民党の中の旧民主党系の中のさらに半分くらいと社会党の中の半分くらいのはずだ。その他の議員たち、つまり、自民党の中の旧自由党系の全部と旧民主党系の中の半分、野党共産党の全部、野党社会党の半分という国会での圧倒的マジョリティーは、「4島だけではなく全千島を返還しろ」と主張していた。実際、全権の重光葵が勝手に4島返還を諦めて2島返還で交渉をまとめようとしたときは閣内一致で強く反対し、交渉をまとめさせないために重光を米国に派遣して交渉の現場から外したりもしている。

米国案2というのは日本のためにもなったが、米国が日本の拡張を望んでいない面もあったようだ。1950年代というのは、同年代初頭までGHQが日本の再軍国化を恐れ兵器となりえる航空産業の規制を継続していて、また、優秀な航空機を作る技術を継承させないために東大などの航空工学科を解体したばかりの時代だ。戦争に行ってきた兵隊たちが大量に生きていた時代だったから、日本国内でも「再軍備」や「徴兵制復活」などを切望する層が大量に存在した。そういう者たちに米国は細心の注意を払い、報道規制は解かれても、戦争賛美映画への規制などは継続していた時代だ。軍国主義的な者たちを排除するために、公職追放なども行われたばかりの時代だった。1980年代になってさえ、たとえば中曽根が「不沈空母」と言っただけで米国は警戒感を露わにした。同じく1980年代においても依然として、米国南部に留学生が迷い込むと第2次世界大戦のことで因縁をつけられ、何年かに1,2件の割合で殺人事件や重度の傷害事件が起こっていた。それくらい日本に対して悪い感情を持つ層が米国には存在した。1990年近くになってさえも、次期支援戦闘機の日本独自開発などは、経済的理由もあったが再軍国化を米国によって懸念され計画が潰されている。1950年代というのは、戦争が終わったばかりであり、日本が英米蘭などに対して講和条約を結んで法律上は敵対国と認定されなくなっただけの状態であり、まだ沖縄も返還されていなければ日本と米国との絆もそれほど形成されていなかった時代だ。だから、当時の米国が日本側の「千島全島の返還」を応援するわけがなかった。ましてや、泰緬鉄道建設による捕虜虐待により5万人中1万5千人が死亡した上に日本のために広大な東南アジアの植民地を失った英国やオランダにおけるひどく悪い対日感情を考慮すれば、日本の「全千島返還」どころか「4島返還」でさえ国際社会において承認される可能性は低かった。実際、その後日本と親密になった米国は英国に何度か「ソ連から日本への4島返還」の話を持ちかけたが、その度ごとに激怒した英国が問答無用の門前払いにしている。オランダも同様の事情により当時の対日感情は非常に悪く、1971年に昭和天皇が国賓としてオランダを訪問した時などは、周り中を群衆が囲んでシュプレヒコールを上げ、生卵を投げつける者さえいたと言われる。また、天皇の乗った車に魔法瓶が投げつけられたため、車のフロントガラスがひび割れたりもした。天皇は同時に英国訪問も行ったが、記念に植樹した植物の苗が引き抜かれ、元に戻せないように苗の根に薬品がかけられたりもしている。今の日本と英蘭の関係においては、考えられないくらい両国の対日感情は悪かった。

しかし、その後、日本が平和外交を続けたことや戦争世代が消えて行ったことなどにより、両国との関係は改善して行った。北方領土の返還に大反対をしていた英国も、1990年手前くらいには「法的には日本の主張を認める」と立場を転換している。オランダにおいても、虐待を受けた元捕虜たちの世代が消えていくに従い、かつてのような反日的主張はそれほど見受けられなくなっている。

一方、ソ連についても西側諸国における見方が180度転換している。戦時中は「同志」として米国が持ち上げたソ連は、戦後になると中国に革命を輸出しただけではなく朝鮮戦争を起こした。ポーランドなどへの介入を快く思っていなかった西側諸国、特に米国は、ソ連が朝鮮半島に暴力的に介入したことによりソ連に対する態度を反転させた。しかも、その後も、ソ連はベトナムやキューバなど各地に勢力を広げようとしたため、米国を中心とした西側諸国と激しく対立した。米国においては1950年の時点でヤルタ協定を守る気など失せていた。ソ連が非人道的行為を続けた上に冷戦期を通して他国を顧みない強権的な政策を続けたためかつての西ヨーロッパの知識人たちの間に存在した社会主義国への淡い期待が完全に消え失せ、ソ連は忌み嫌われて極度に用心される対象になっていた。そういうふうにソ連が認識されるようになっていた1972年に、日本の大平外相が「北方領土問題を2国間で話し合っても埒が明かないから、国際会議にかけて解決しよう」と申し入れたことがあったが、当然ながら、その時のソ連の返答は「ニェツト(否)」であった。ソ連が国際社会に出て行けば、袋叩きに会うことは明白な情勢だったからだ。その当時から、ソ連は「2国間交渉」以外を絶対に行わない。そのことは、次回に指摘する現代のロシア側の主張においても継続している。ソ連は、2国間交渉という閉鎖された空間を利用して、次々に約束の反故を繰り返した(そういう過程についても、おいおい書いていこうと思う)。そして、都合が悪くなると鉄のカーテンに守られた自給自足体制であったことを利用して、日本との交渉を何度か完全にシャットダウンしている。日本の外交官たちがよく「ソ連に貝に閉じこもられると何もできなくなるから」と憂慮していた状態だ。ソ連は、いい加減なことを言っては都合が悪くなると「完全閉じこもり」の状態になってしまうのだから非常にたちが悪かった。

しかし、そういうソ連も米国との経済戦争に敗れ、ソ連邦が崩壊してロシアになり国際社会に出て来ざるを得ない状態になった。ロシアになり強い情報統制が解かれたため、国際的にいい加減な発言を連発しても国内的には鉄のカーテンを利用して国民にはごまかすことができるという時代ではなくなっている。また、今のロシアは国際的なサプライ/デマンドチェーンの中で資本主義的取引の環境に身を置き国の経済を保っているため、そういう意味でもソ連邦時代の自給自足経済のときのように都合が悪くなると会話をシャットダウンして自国に籠るということができなくなっている。さらに、今現在のロシアはウクライナ問題でソ連邦時代のような強権性を発揮して武力介入を行ったために国際社会から非難されて浮いているから、北方領土問題で国際的な賛同を一部でさえもロシアが得ることなど夢のまた夢の状態だ。

資本主義社会においては、言い方はえげつないが「金を持っている方は何でもできる」のだから、日本は自国のアドバンテージをもっと利用するべきだと私は思っている。また、日本と他国の国際関係も良くなっているのだから、サンフランシスコ講和条約第25条を利用して「貴国が言われる『日本が千島を放棄した』ということはどうやって説明できるのか?」と開き直って議論し直すことも可能なはずだ。1950年代の日ソ共同宣言の交渉時ならば、もしも日本がそう主張したならば逆に日本の方が国際社会から袋叩きにあっただろう。しかし、時代は変わって、日本に恨みつらみがある世代が消え冷静に日本のことを考えてくれる世代が増えている上に、ロシアの方は「侵略国家」として世界中から認定され非難されている。「サンフランシスコ条約を利用して物を言うならば、同条約22条に定められた義務に基づき国際会議で全千島20島の所属を決めるべきだ。平和的解決法は嫌か?」と詰問をするくらいでなければ、4島など返って来ないだろう。日本の外交官たちが恐れているような「自国に閉じこもって貝になってしまう」ということは、今のロシアには決してできない話なのだから、そういう点も憂慮しなくてよいはずだ。
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ロシア人の対日戦争観 2

前回説明したように、極東のロシア人たちは対日戦について酷く歪んだ「歴史認識」を持っているため、被害者であるこちら側はそれらを見聞きしているとひどく不愉快な気持ちになる。しかし、ヨーロッパ地域のロシア人たちの「歴史認識」も、極東のロシア人たちに負けず劣らず酷いものだ。ヨーロッパ地域のロシア人たちによれば、日本はドイツと組んでロシアに大迷惑をかけた「加害者」ということになっている。彼らは極東から数千kmも離れたヨーロッパに住んでいるため、他の国々のヨーロッパ人たちと同様に「千島列島がどこにあるのか」「カムチャッカ半島がどこにあるのか」さえ知らない。ましてや、70年も前に極東の地で起こった戦争の詳細についてはほとんど何も知らずに、ソ連邦時代に頭に叩き込まれた「日本は悪い存在であり祖国ロシアはもとより世界全体に迷惑をかけたから、ソ連は正義の戦いを行った。その結果、世界から感謝・賞賛されて北方領土を正当に領有することになった」などというとんでもない対日戦争観を持っている。そういう認識はロシア政府の高官たちにもよく見受けられるのであり、前大統領のメドヴェージェフがそうであり外相のラブロフなどもそうだ。次に述べるガルージン駐日大使もそういう意見の典型を主張している。ガルージンは北方領土については対日強硬派として知られていたが、プーチンはそういう人物を大使にして日本に送り込んだのだから、ロシアは領土問題を日本と話し合うつもりがないことが明白に理解できる。ガルージン駐日大使は、以下のように主張している。

https://jp.sputniknews.com/opinion/201807245153757/
>同意していただきたいのは、ロシア国民が、南クリルに抱いている感情も考慮されるべきだということです。南クリルが第二次世界大戦の結果、合法的にソ連のものになったということは、国連憲章によっても確定されています。我々の国が2700万人もの犠牲者を出して、ナチスドイツとその衛星国に勝利するにあたり最も重要な貢献をしたことは、覚えておくべきことです。

ソ連が北方領土を占領していることに対して法的・条約的な根拠が全く存在していないことは既に以下で説明した。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-05

ガルージンの発言は、そういうソ連時代からの間違いやごり押しに加えて、次の重要な点を忘れている。

 ソ連がナチスドイツに勝つことができたのは、
 日本が日ソ中立条約を守ったおかげであること

この日本側からの「恩」については、北方領土の返還理由にこそなっても不法占拠を続けるための理由にはならない。一国の大使が平気で頓珍漢な発言を繰り返している状態だ。



まず、独ソ戦直前の状況を理解しておく必要があるだろう。

1939年、ソ連はナチスドイツと不可侵条約を結んだ。そのとき、ソ連はポーランドの分割・併合とバルト三国のソ連への併合についてもドイツと秘密協定を結んでいた。さらに、将来的なフィンランドのソ連への併合についてもヒトラーから内諾を得ていたと言われる。1939年9月ドイツがポーランドに侵攻すると直ちにソ連もポーランドに侵攻し、東西ポーランドを独ソで折半してポーランドという国を消滅させた。英仏などがドイツの侵略行為を責めるのであればソ連についても同様に責任を追及するべきであるが、ソ連は戦勝国として連合国に加わっているためにその責任はあまり追及されていない。ソ連は単に東ポーランドを併合しただけでなく、同国の復活運動を防ぐためにポーランド人の軍人や知識階級などの「国の頭脳」を何万人も抹殺した。後にソ連が行った軍人への虐殺事件であるカチンの森事件などが発覚するが、ソ連はグラスノスチ政策が行われるまで「ナチスのやったことだ」と強弁して譲らなかった。因みに、当時の東ポーランドはいまだにポーランドから奪われたままだ。ポーランド侵攻直後の1939年11月、ソ連は今度はフィンランド全土の併合を視野に入れながら、まずは領土の割譲を求めてフィンランドに侵攻した。「冬戦争」と呼ばれたこの戦いでフィンランドは圧倒的少数にも関わらずによく防戦したため相対的にソ連軍の実力が低く評価された。そのことがナチスドイツの判断を誤らせ独ソ開戦の一因になったと言われている。多勢に無勢のフィンランドは、結局、国土の10%を割譲させられて講和条約を結んだ。次にソ連はナチスとの密約通りに1940年6月にバルト三国に侵攻して併合した。また、それと同時期にルーマニアにも圧力をかけベッサラビアを割譲させている。

つまり、当時のソ連は「正義の戦い」など行っていない。

ナチスドイツが英仏蘭などの西欧諸国と戦っていた間、ソ連は東欧に侵攻して着々と領地を広げ、全欧州を東西でナチスドイツと折半して領有することが計画通りに進められていた。しかし、ドイツは英国戦線で行き詰ったため、ソ連を征服し欧州全土を掌握して英国に大陸から圧力をかけることを計画し始めた。この結果、1941年6月に独ソ戦が始まった。この時はまだ「連合国」などは存在せず、互いに不可侵条約を結んでいた日独ソの内の2国が仲違いを始めただけの状態であったことに注目しておく必要がある。

ナチスドイツのソ連侵攻作戦は「バルバロッサ作戦」と呼ばれる有名な作戦であるから、詳細を書く必要はないだろう。以下に、ウィキペディアの一例を紹介する。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B5%E4%BD%9C%E6%88%A6

バルバロッサ作戦が始まると、ソ連軍は戦車や飛行機など最新兵器の数や質において劣っていた上に不意を突かれたこともあり次々と敗北を重ねた。この侵攻作戦のとき、それまでソ連に抑圧されていた国々はナチスの味方をした。ルーマニアやブルガリア等はドイツの側に立って戦い戦後に敵国条項の対象国になり、ウクライナはナチスドイツ軍を歓迎して迎え入れたりもしている(ただし、後にナチスの真意を知るとナチスへの協力はなくなる)。ソ連軍は、6月の開戦後敗北に次ぐ敗北を続け、100万人単位の捕虜を出しながら10月初旬にはモスク近郊まで一気に押し込まれた。ドイツ軍の侵攻作戦の成功により、ソ連軍は戦車や飛行機のほとんどが潰されてモスクワが窮地に陥った。このときモスクワを救ったのが、満蒙周辺の対日本軍用に配備されていたシベリア師団だ。ソ連は、ドイツに備える以上の軍備を日本に対して保持し、満蒙国境近辺に配備していた。ソ連は、これらの軍団を何週間かかけてシベリアや極東から次々とモスクワ近辺に輸送して首都の防衛に当てた。

以下のページによれば、モスクワ攻防戦時に18個師団、戦車1700両、飛行機1500機以上がシベリアや極東からモスクワに向けて輸送されている。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

モスクワ攻防戦が始まった頃のドイツ軍の戦車数は約2千数百両であったから、極東からヨーロッパへ輸送された戦車千数百台が如何に貴重な物であったかが分かる。また、ソ連軍の飛行機の稼働数も数百機だったところに新たに千数百機が加わったのだから、その価値も計り知れない。師団数においても、ドイツ軍により壊滅させられたソ連西方面軍を補充するためにあまり役に立たない新兵を中心に全58師団が集められたが、その中でシベリア・極東師団の18師団分が実戦経験を積んだ精鋭部隊であったこともソ連側に大きく貢献した。これらの新兵力と冬将軍の前に、ドイツ軍はモスクワをわずか数Kmの眼前にしながら攻略できず次第に劣勢になって行った。

この独ソ戦の間、満州周辺のソ連軍はもぬけの殻の状態であり戦力が激減していた。第二次世界大戦末期のソ連軍の満州侵攻時とは逆の状態であり、もしも日本が極東やシベリアを攻めようと思えば容易く攻め取れた状態だったが、日本は日ソ中立条約を守り少しも手出しをしなかった。ソ連はこの時の日本による「恩義」を忘れて終戦時に蛮行(以下参照)を行い、恩を仇で返している状態だ。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-02

さらに、あろうことか、極東の事情をよく知らないロシアの人口の8割を占めるヨーロッパ地域のロシア人マジョリティーの何割もが、「日本はドイツと軍事同盟を結んでいたから極東からは日本軍が戦争を仕掛けていたはずだ。それにより、祖国ロシアは被害を受けたはずだ」と思い込んでいたりする。そのため、「日独がロシアに大被害を与えたのに、今さら領土を返せと言うのは都合がよい」と激高するロシア人たちがかなり存在する。



まず、一国の大使として相手国の歴史を正確に把握しているべきガルージンに対して言いたいのは、ソ連邦時代に自国内で意図的に流布された「ソ連の栄光を捏造するための嘘」ではなく、真実に基づいた日本側の国民感情についてこそ考慮するべきだということだ。ソ連共産党が国民に対して騙しに騙しを重ねた「嘘の歴史」ではなく本当の歴史を知れば、北方領土というのはロシア側が胸を張れた代物ではなく「ソ連の負の遺産」であることを正確に認識できるだろう。

歴史を正確に認識することは重要なことだ。たとえば、ガルージンは「我々の国が2700万人もの犠牲者を出し」などとも主張しているが、これらの数字は誇張されたものだ。ソ連邦時代には「第二次世界大戦のソ連側犠牲者数は1500万人だ」と主張して西側の学者たちから「900万人くらいのはずだ」と批判されていたが、2700万人というのはあきらかにロシア人以外の犠牲者を含んでいる数字だ。今では独立国であるウクライナ・ベラルーシ・バルト三国の犠牲者に加えて東ポーランドやルーマニアなどの犠牲者も加えたものだ。それらの犠牲者の中には、ソ連軍がドイツ軍の捕虜となった者たち数百万人をナチスドイツから取り戻した後に「腰抜けの裏切り者」として処刑したり虐待死させた分や、ソ連軍が東欧戦線において民間人たちを戦闘に巻き込んだ分を多量に含んでいる。ロシアやソ連が長年無理に異民族を支配して領土を奪った結果、ソ連が散々に嫌われて各民族により独立運動や離反運動を起こされ、中にはNATO側に加わるほどにロシアを嫌っている他国人の犠牲者の分を「ロシアの犠牲者」としてカウントする神経が理解できない。また、近頃はソ連時代のように情報統制が行われておらずロシア市民たちがネットに自由に書き込めることにもよるのだろうが、上述した「バルバロッサ作戦」などは、一昔前の「ロシア軍ぼろ負け」の実情が「ロシア軍の奮闘」の記述の羅列によって見えにくくなっているようにも思える。ロシア国粋主義者たちが大手を振って闊歩するような社会というのは、戦前日本に右翼たちが蔓延った社会の二の舞になるのではないかと他人事ながら心配になる。

付け加えておきたいのは、屁理屈でも間違った歴史認識でも何でも、ここまで自国の利益を熱弁するガルージンのような外交官というのは立派だということだ。日本人としてはガルージンの言うことは決して認められないことだらけだが、彼がそこまで祖国ロシアのために嘘をついてまで熱弁をふるっていることはある意味、天晴でもありうらやましくもある。日本の外交官どころか民間メディアまで首相周辺だけのおかしな意見に「忖度」して、日本の方が正当も正当であることをほとんど主張せずにロシアの嘘に次ぐ嘘の主張にすべてを譲っている。さらに、日本の国内向けに新聞等が「正当な意見」を言っても、それにロシア大使が横から激しく噛みついてくるような状態だ。もしも、これと逆のことを日本の大使がロシアで言ったり行ったりしたのならば、ロシアから日本に向けてどれほど激しい抗議が起こることになるだろうか。少し日本側が何か言えば「内政干渉だ」と猛抗議するのがソ連やロシアの政策だ。ところが、日本に対しては、ロシアの大使は平気で「嘘による内政干渉」を行い日本の世論を誘導しようとしている。そう思うと、日本の政権はまともに日本人のために行動しているとは思えなくなってくる。皆が買収されているような売国奴による政権のように思えて情けない。
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ロシア人の対日戦争観 1

ソ連は終戦時に非常に汚いやり方で侵略行為を行い、大量に日本人民間人を殺した上に日本から領土を奪った。ソ連の行為は違法・不法であり、基準が厳しくなって来ている現代の国際法の下で承認される可能性はほぼ0だ。しかし、ロシア人たちの感覚は全く逆であり、当時のソ連が日本に行ったことに誇りを抱いている。なぜそうなったのかと言えば、ソ連邦時代にソ連政府が鉄のカーテンを利用して徹底的に嘘の情報を市民たちに教え込んでいたからだ。小中学校での教育はもちろんのこと、成人した市民たちに対しても映画館での本編上映前に政府宣伝用小編映画を流し、ラジオ・テレビなどでもしつこく嘘の教育を行っていたからだ。そのため、情報統制が緩くなった現在においても、ロシア人たちの対日戦についての感覚は、我々日本人の物とかけ離れている。ロシア人たちは対日戦についてそういう感覚を持っているため、ロシア政府の高官たちが平気で次の様な発言を繰り返している。

https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000148606.html
>タス通信によりますと、色丹島を訪れたイワノフ大統領特別代表は26日、「領土問題があると考えているのは日本だけだ」として「北方領土の引き渡しについて日本とロシア政府は一切、議論していない」と述べました。

ロシア政府の高官には、日本の主張や世論を抑え込むためのテクニックとして日本に対して敢えて強い主張をしているように見受けられる者たちもいるが、ソ連時代の嘘の教育が身に染みていて本当に心からそう信じて発言しているように思える者たちもいる。そのような者たちは、ソ連が終戦時(以降も)に行った以下のような蛮行の数々を知らない。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-02

ソ連政府が「そのようなことは日本のでっち上げだ」と市民たちに宣伝しまくっていたためだ。1990年頃にグラスノスチ政策が行われて初めて、ソ連はシベリア抑留について謝罪の意を表わしたが、シベリア抑留はソ連国内で行われソ連に資料が残されていたから認めざるをえなかっただけだ。日本人民間人への虐殺行為や日本から降伏の意思が示された後に攻撃を開始したことなど、その他の外地で起こったソ連の傍若無人な違法・不法行為の数々についてはすべて無かったか「日本のでっち上げ」か「日本に責任がある」ということになっている。そのように、ソ連により捻じ曲げられた「歴史」を無邪気に信じているような者たちは、ソ連邦時代に教育を受けた今のロシア政府高官の世代の中に大量に存在している。次回は、そのような人物の典型を一人選んで考察の対象とさせてもらうつもりだが、今回は以下のような「ロシアの庶民感情」について、それがどのくらい史実とかけ離れているか考えてみたい。

http://www.news24.jp/articles/2019/02/07/10416357.html
>ステパノフさんにとって、北方領土とその周辺の島々は、多くの戦友が文字通り、命を懸けて獲得した領土で、日本への引き渡しには反対だという。

占守島というのは約20島ある千島列島の最北端の島であり、千島方面においてソ連軍が最初に侵攻した島である。占守島の戦いが起こったのは8月18日だ。日本はそれより4日前の8月14日にポツダム宣言を受諾し降伏する旨を連合国側に伝えていた。国内的には翌8月15日に玉音放送が行われた。それにより、英米欄軍などの多くは戦闘を止めた。占守島の日本軍も武装を解除し、弾薬や燃料などの半分を処分して帰国の準備をしていた。ところが、ソ連軍だけは8月18日深夜にいきなり砲弾を撃ち込んで日本軍のいた占守島に進撃して来た。米国のマッカーサーが占領政策を行うために厚木に降り立った時は爆弾や砲弾などは落していないのだから、ソ連軍の行動は明らかに平和的な占領政策をするためのものではなかった。このように、日本側から降伏の意思が伝えられたにも関わらず攻撃が開始された背景には、「終戦時のどさくさに紛れて北海道を占領する」という目的がソ連にはあったからだ。同じようなことが樺太でも起こっていた。当時の状況については、たとえば以下でよく説明されている。(私としては、右系チャンネルはあまり好きではないのだが)

https://www.youtube.com/watch?v=7LsUV0ZOuu4

深夜にどこの国のものともわからない軍隊が突然、砲弾を撃ち込んで攻撃してきたため、帰国の準備をしていた占守島の日本軍は大慌てになった。日本政府は、8月15日に終戦を宣言した後も現場の日本軍部隊に対しては「自衛のための戦闘はやむをえない」と承認していたため、日本側は急遽部隊を編成し直してどこの国のものかわからない軍隊に対して反撃を行った。やがて、敵がソ連軍と分かった。千島列島の日本軍は、米国との戦闘に巻き込まれずほぼ無傷なまま残存していたため戦力は充実していた。その結果、上陸して来たソ連軍をどんどん押し戻した。そして、ソ連軍を海岸に追い詰めて簡単に殲滅できる体制になった。このとき、自衛のための戦いであったから、日本軍はそれ以上の手出しはしていない。日本軍はその時から停戦交渉を行い、最終的に23日にソ連軍に投降して武装解除された。占守島の戦いの様子は以下によくまとめられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E5%AE%88%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

この戦いは自衛のための戦いであったために、日本軍がソ連軍を明らかに殲滅できた状態であったにもかかわらず部隊を引かせている。だから、決して、元ソ連兵の言うようなソ連側が胸を張れる戦いではない。また、日本の降伏の後に占守島の戦いを起こしたソ連の侵略的な意図も、強く非難されるべきものだ。日本の降伏後に不要な侵略戦争を起こして双方合わせて千人を超える戦死者を出しておきながら自分たちの暴虐さを理解していないのだから、ロシア人の対日戦についての認識がよく現れた身勝手な元ソ連兵の「武勇譚」だ。ソ連時代はそういう「祖国の英雄」たちを賞賛して積極的に宣伝に利用していたのだから、ロシア人たちがいまだに対日戦について胸を張って自分たちの「栄光(本当は汚辱の塊)」を自慢している状態だ。対日戦については、そういうように間違った認識が今のロシア人全体に、特に極東の事情を知らないヨーロッパロシアに広く蔓延している。(以下参照)

https://ironna.jp/article/2415?p=2

https://digital.asahi.com/articles/ASLB34SXJLB3UHBI01N.html?_requesturl=articles%2FASLB34SXJLB3UHBI01N.html&rm=834
>郷土史の教師アナトーリ・シュルーブさん(68)は「17世紀にロシア人が島を発見。居住、調査、開拓をした。国際法上、ロシアの領土と認められる」と子供たちに教えているという。ロシアより先に日本が北方領土を発見・調査したという日本の主張とは真っ向から対立する。

ソ連時代にソ連政府が鉄のカーテンを用い情報統制を行ってロシア人たちを洗脳した影響が今でも強く残っている。ロシア人たちのこういう酷く間違った認識を正すことができない限り、領土交渉などありえないだろう!
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6、北方領土の歴史とおかしな人たち

未だにインターネット上には、北方領土についておかしな記述が転がっている。以下のページなどは、北方領土の歴史と言い条約の解釈と言い、とてもまともとは思えない。

 http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Yasashii.htm

上のページでは、たとえば、北方領土の歴史について古いブリタニカ百科事典を引いて次のように説明していたりする。

>世界で一番有名な百科辞典である『ブリタニカ百科事典』で調べると、英語で、次のように書いてあります。
千島には最初にロシア人が住み着いた。これは17、18世紀の探検に引き続いて行われた。しかし、1855年、日本は南千島をうばいとり、1875年には全千島列島を領有した。1945年、ヤルタ協定にもとづいて、 島々はソ連にゆずりわたされた。日本人は引きあげ、かわってソ連人が移住した。日本は、今でも、南部諸島に対する歴史的権利を主張し、 島々に対する日本の主権を回復するように、ソ連・ロシアを、くり返し説得している。

これは甚だしい事実誤認であり、今のブリタニカ辞典では以下のように改変されている(それでもまだ、「サンフランシスコ講和条約によりソ連に割譲された」などと親ソ的な間違った記述が目立つのだが)。

 https://www.britannica.com/place/Kuril-Islands



北方領土の歴史を振り返ってみる。

日本書紀には西暦658年に阿倍比羅夫が北海道の蝦夷と樺太の粛慎を征伐した記述があるそうだが、その真贋は定かではない。一般的に和人が蝦夷地と呼ばれた北海度に渡って暮らすようになったのは、鎌倉時代(1185年~1333年)の後半と言われる。その頃の蝦夷地にはアイヌやギリヤークと思われる諸族が入り乱れて存在し、互いに交易したり抗争したりしていた。当時の和人たちも、そういう諸勢力の中の一勢力でしかなかった。その後和人の進出地域は広がり、1457年の和人とアイヌとの間で起こったコシャマインの戦いでは、和人は余市や鵡川で戦ったことが記されている。(以下参照)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

戦いを鎮圧後、鉄器を有し優越する武力を有した和人は蠣崎氏の下に結集して道内のアイヌを次々に服従させて行き、1475年には道外の樺太アイヌからも貢物が献上されている。16世紀後半には蝦夷地全体のアイヌを抑えた蠣崎氏に蝦夷貿易の独占を許す朱印状が豊臣秀吉から与えられている。1599年に蠣崎氏は松前氏と姓を変え、藩政を整えて着々と蝦夷地経営を充実させた。「新羅之記録」によれば、1615年から1621年頃には根室地方のアイヌ(北方四島のアイヌ)が松前に来て貿易をしていたことが記録されている。また、この頃(1644年)幕府に献上されたのが「正保御国絵図」であり、そこには初めて「くなしり、えとほろ、うるふ」などの千島列島の名前が記されている。和人たちは漁師や金採掘者などとしてその時代より遥か以前から道内全域に広がっていたから、千島列島の存在を認識して利用したことは庶民の間では正式な記録よりも前から行われていたはずである。

部族の長を抑え蝦夷地をまとめた松前藩は、独占貿易により不平等な取引をアイヌたちに強要したため、次第にアイヌたちは不満を鬱積させるようになった。やがて、アイヌたちは1669年にシャクシャインの反乱を起こした。(以下参照)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

この反乱が鎮圧された後は、それまでのような各地のアイヌ勢力を和人が緩くまとめるという形ではなく、松前藩が蝦夷地全域をかなり直接的に支配するようになった。1715年の幕府への上申書には「北方領土が松前藩領として統治されている旨」が書かれていて、1754年には松前藩により北方領土に場所が開かれている。(以下参照)

 https://www.hoppou.go.jp/gakushu/outline/history/history1/

一方、ロシア人の千島進出はどうだっただろうか?

西洋人としては、オランダ人ド・フリースが1643年に最初に千島列島を発見した。ロシア人として誰が最初に千島を発見したのかは判然としていないが、ロシア人が千島を最初に訪れた時期はその数年後のようだ。そういう事情は、ロシア側について若干歴史を誇張しているような以下のページでも確認することができる。

 https://jp.rbth.com/travel/2017/07/28/813048

こういう説明から判断すると、ロシア人が千島列島を見つけたのは大体1650年代くらいの話ということになる。その後、ロシア人たちが千島列島に本格的に進出して行ったのは、1711年以降のことだ。(以下参照)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E5%9B%BD#%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8D%97%E4%B8%8B

そもそも、当時のロシアは沿海州さえも確保できず、1689年に清ロ間で結ばれたネルチンスク条約においても清国が樺太の対岸の地域を領有していた。(以下参照)

 https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/aa/d5839d63027e70d69d5bb657790be64b.gif

当時のロシアはやっとのことで樺太近海に探検隊を送っても、1809年に日本人の間宮林蔵によって発見されるまで「樺太が半島なのか独立した島なのか」を知ることさえできない状態だった。また、間宮が樺太に渡り調査を行ったときには、樺太アイヌたちは対岸の清国に貢物を贈っていたため、間宮もそれに便乗して対岸の中国官吏(東韃靼人)たちに会っている。ロシア人たちは清王朝が支配した沿海州や樺太からの南下を諦め、カムチャッカ半島方面からの南下を重視するようになったと言われている。ロシア人たちは、1711年に初めて千島列島最北端の島である占守島に本格的に足を踏み入れてから千島列島の南下を続け、1780年頃から頻繁に北方4島にも来訪するようになった。そして、日本に開国するようにしきりに強要したが、日本側が無視したため、何度か北方領土周辺の日本側拠点を襲撃して圧力をかけたりしている。樺太にも少数だが既に日本人たちが存在していて、そこもロシアの襲撃を受けた。4島以北の島々にも少数の日本人たちが存在していたが、ロシアの遠征によりたびたび捕らえられてロシア本国に送られ、厚遇されて日本語教師にされたりもしている。その後も千島列島において日ロの紛争がたびたび起こったので、幕府とロシア政府は1855年に日露和親条約を結び、国境を4島の北に設定した。



以上のように、千島列島における日本とロシアの歴史を見てみれば、どちらが先に千島に進出して自国民の生活の場としていたのかは火を見るよりも明らかだ。細かい両国の歴史を見なくとも、総論的に常識的に考えても、ロシア人のウラル以東への遠征が本格化したのはコロンブスが新大陸を発見した後(1492年)だから、その時から数千kmのシベリアを渡って極東に達するまでに長年月を要したことは容易に想像がつく。新大陸でインディアンを征服して行ったようなものであり、ロシア人の遠征隊もたびたびシベリア原住民たちにより襲撃されている。それに比べて、鎌倉時代から日本人が進出していた土地の隣の土地である千島列島は、発見も支配も日本人の方がはるかに早かったのは当たり前のことだ。

さて、冒頭に引用したウェブページでは、これをまったく逆に書いているのはどうしてなのか気になった。そして、ウェブページで参照している文献の著者たちを見て納得がいった。それらの著者の内の一人は「北朝鮮学」が専門のようであり「朝鮮戦争は、先に南朝鮮が仕掛けようとしたために仕方なく北朝鮮が先攻した」と主張し、ソ連のグラスノスチ政策により情報が公開されるまでは自説を譲らなかった人物である。また、慰安婦問題についても、政府委員として「まったく証拠がない」という他委員からの指摘にも関わらずに「慰安婦の強制連行は存在した」と独断して強硬に政府の方針を決めた人物でもある。他の著者について見ても、南京虐殺の犠牲者数を20万人としていたりする。(ちなみに、私も南京虐殺は有ったと思っているが、その規模はもっと小さかったはずだと認識している。)これらの人たちは、以上に説明したように歴史事実だけを見てもおかしな意見を言っているのだが、条約の解釈についてもソ連の理屈の立たない主張をそのまま受け売りして書いているだけであり、まったく条約の解釈になっていない。条約の話についてはすでに以下で説明したことであるから、ここでは指摘しない。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-05

こういう人たちがいて変に政府を煽るために、北方領土問題について政治家が冷静な判断を行えなくなる一因となっているのではないだろうか? 右翼の煽りは迷惑なのだが、左翼の暴論も冷静な議論において迷惑でしかないと痛感している。
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5、敵国条項について

ソ連は、千島列島領有についての法的な根拠を何も持っていない。

ソ連は、「ヤルタ協定」「ポツダム宣言」「SCAPIN677号」「サンフランシスコ講和条約」などを持ち出して千島列島の領有が正当であると主張していたが、いずれも理由にならないことは説明した。(以下参照)

https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04

どれもが理由にならないからこそロシアは慌てているのであり、その結果「屁理屈でも何でもよいから何としても日本にロシアの千島列島領有の正当性を認めさせる」という態度に出ている。そして、ロシア外相のラブロフが今度は「国連憲章敵国条項」を持ち出して以下のように強弁しているが、これは、戦後70年の時間が経ち国際関係と国際法の考え方が変わり立場がどんどん不利になっているロシア側の焦りの表れでしかない。

http://news.livedoor.com/article/detail/16059544/
>ラブロフ氏はモスクワ市内の会合で、旧敵国条項の一つ、国連憲章第107条を念頭に「国連憲章には(第2次大戦での)戦勝国による行為は交渉不可能と書かれている」と主張したことを明らかにした。

国連憲章には「敵国条項」と呼ばれる項目がいくつか存在する。具体的には国連憲章第53条、第77条、第107条に「敵国」の文言が現れる。このうち、第77条は信託統治に関する条文であり、日本については日本が大戦により手放したサイパン・パラオ・トラック諸島などが関係するだけで北方領土とは関係がない。また、第53条は安全保障に必要な地域的な強制措置についての規定であるが、「そのような強制措置は正式な機構が敵国(日本やドイツなど)の新たな侵略を防止するまで」と期限が切られていて、しかも今現在は日本やドイツなどが侵略行為を行っていないのは明白であるから、これも北方領土の話とは関係がない。国連憲章の敵国条項の中で北方領土と関係する可能性があるのは、上記ラブロフ発言にも現れる第107条ただ一条のみだ。

第107条についてのラブロフの主張は、問題にならないレベルの酷い頓珍漢さを示している。第107条の条文を英文で見てみる。

 https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/unch-je.pdf
 Article 107
 Nothing in the present Charter shall invalidate or preclude action, in
 relation to any state which during the Second World War has been
 an enemyof any signatory to the present Charter, taken or authorized
 as a resultof that war by the Governments having responsibility for
 such action.

この長い一文の主な骨格は、以下の部分である。

 Nothing in the present Charter shall invalidate or preclude action...

 「Nothing in the present Charter」という主語が「action(措置)」と
 いう目的語を決して「invalidate or preclude 」してはならない…

 (否定形の「shall」は、特に法文などで用いられたとき、
  「未来予測」ではなく「強い禁止」を表すということに
  説明の必要はないだろう。日本語で言えば、現代の文章
  では珍しくなった「絶対に○○すべからず」というように
  でもなるだろうか)

 つまり、日本語にすればこういうことだ。

 「この憲章のいかなる部分も、(以降で説明される)措置を決して無効に
  したり排除したりしてはならない」

上記骨格部分の後に、「action(措置)」の内容についての詳しい説明が書かれている。その内容は以下のようになる。

 in relation to any state which during the Second World War has been
 an enemy of any signatory to the present Charter, taken or authorized
 as a result of that war by the Governments having responsibility for
 such action.

 「この憲章の加盟国のいずれか一国に対し第二次世界大戦中に敵対した任意の
  国に関する措置であり、(しかも)それらの措置に対して責任を有する(加
  盟国の)政府により大戦の結果として採用されたり承認されたりした措置」

以上をまとめると、国連憲章第107条は次のように訳されることになる。

 国連憲章第107条
 この憲章のいかなる部分も、この憲章の加盟国のいずれか一国に対し第二次
 世界大戦中に敵対した任意の国に関する措置であり、(しかも)それらの措
 置に対して責任を有する(加盟国の)政府により大戦の結果として採用され
 たり承認されたりした措置は、決して無効にしたり排除したりしてはならない。

さて、主語が「Nothing in the present Charter (この憲章のいかなる部分も)」というように人ではない抽象的な概念になっているが、これは、条文の不明確さを排除するために必要な書き方だ。例えば主語を「何人たりとも」などとすれば、「国は例外か?」「法人は例外か?」「まだ存在していなかった新規独立国はどうなるのか?」などというように不明な部分が大量に生じるだろう。そういう不明確さを排除して「どのような存在がどのような条件で行おうとも(以下のことは禁止される)」とするために、このように分かりにくい形の主語で書かれているだけだ。ということは、敢えて曖昧さを加えてもう少しわかりやすい日本語に意訳すれば、第107条は以下のようになる。

 国連憲章第107条
 何人たりとも、この憲章の加盟国のいずれか一国に対し第二次世界大戦中に
 敵対した任意の国に関する措置であり、(しかも)それらの措置に対して責
 任を有する(加盟国の)政府により大戦の結果として採用されたり承認され
 たりした措置については、それらを無効にしたり排除したりする目的でこの
 憲章のいかなる部分をも決して利用してはならない。

つまり、我々がやってはいけないことというのは、「国連憲章の一部を利用する」という形で戦勝国の採用した方針に盾突くということだ。国連憲章は1945年に作られたものであり、各国に平等な政治的独立を認めている。そのため、国連憲章中の規定のいくつかは、そのままでは、当時の日本やドイツにおける連合国による占領統治政策と衝突してしまう。それを避けるために「占領統治などは例外であり、文句を言えない」ということを保障するために設定された条項が第107条だ。

いずれにしても、我々がやってはいけないことというのは、「国連憲章の一部を利用する」という形で戦勝国の採用した方針に盾突くことだ。

さて、では、我々日本人が「北方領土を返せ」とロシアに対して主張しているとき、我々は国連憲章のどこか一部でも利用しているだろうか? 答えは、NOである! 我々日本人が北方領土に関してロシアに抗議している根拠は、「1855年の日ロ和親条約」や「1875年の樺太・千島交換条約」であり、また、「1943年のカイロ宣言」である。

それらはいずれも、国連憲章とは関係がない!

「1855年の日ロ和親条約」も「1875年の樺太・千島交換条約」も「1943年のカイロ宣言」も、独自の2国間の条約や約束であり国連憲章とは関係がない。(条約的な考え方については、他の事項まで含めて既に以下で説明した。)

https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04

ここまで見てくれば、「国連憲章には(第2次大戦での)戦勝国による行為は交渉不可能と書かれている」というラブロフの主張がいかに的外れなものであるかは火を見るよりも明らかだ。こういうことから考えると、

 ラブロフは、分かってゴリ押しをしているか、英語が読めないとしか思えない!
 (しかも、国連憲章についてロシア語の訳が存在しないかまともな訳が存在し
 ないということでもあるようだ)

我々日本人は日本語という膠着語を用いているために、インドヨーロッパ語族の屈折語である英語を理解することはかなり難しい。しかし、同じインドヨーロッパ語族のロシア語と英語の関係において、英語が全く読めない者が堂々と人前で無知をさらしても平気な国というのは、どういう教養レベルにあるのかはなはだ不思議に思えてしかたない。普通、日本やアメリカなどの場合は、文書の意味が分からずに滅茶苦茶なことを言っていると「国家の品格に関わる」として他の閣僚やマスコミなどから苦言が呈されるものだ。

いずれにしても、人権や平和の考え方が時間の経過とともに世界中に浸透するにつれて、70年前にロシアの行った理屈の立たない暴虐な侵略行為が弁護される余地は皆無に近くなっている。そのため、ロシアは次々に嘘をつき屁理屈を並べている。最近のラブロフの発言というのもそういう類の意味のない歪曲されたものだ。ロシアの政府高官が明らかな嘘や誤解に基づいて国民を焚きつけ扇動していることについては、日本側は厳しく非難・抗議するべきだ。それを全く行わずに嘘を一人歩きさせると、後でそれを修正する分が何倍もの負担になって返ってくることを我々日本人は肝に銘じて対処するべきだろう。
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4、日ソ共同宣言(現状の原型)

サンフランシスコ講和条約の締結により、日本は西側諸国の一員として国際社会に復帰した。しかし、ソ連や中国などの東側諸国は同条約を批准しなかったため、それらの国々との間には個別の平和条約を結ぶ必要があった。ソ連は、戦後11年経っても依然として日本人をシベリアなどに抑留して酷使し続けている状態だった。日本人抑留者たちは最初の2年ほどで約4万人が衰弱死し、その後9年間続いた抑留の間に更に2万人が次々と死んで行っている状況だったので、日本側には何としてもソ連と交渉してシベリア抑留者を早急に帰還させるという喫緊の課題が存在した。また、日本は米国の助力により西側の国際社会に復帰できたが、米国と冷戦中のソ連は日本のことを快く思わず、日本の国連参加に反対していた。そのため、日本には国連に加盟して東側諸国も含む全世界的な国際社会に完全に復帰するという目的も存在した。しかし、時代はスターリンによる膨張主義と圧制が行われていた冷戦真っただ中であり、西側諸国の日本がソ連と話し合いを持てるような状態ではなかった。やがて1953年にスターリンが死亡すると、フルシチョフはソ連の外交方針を米国との共存を目指す平和路線に緩和させた。そのような雪解けの雰囲気の中で、1954年暮れに日本側で内閣が変わり外相が対ソ融和的な発言をするとソ連もそれに呼応した結果、日ソで平和条約締結の機運が高まり数か月にして平和条約締結のための交渉が始まった。

日ソ共同宣言の内容についての具体的交渉が始まったのは1955年5月である。この時はまだシベリア抑留者たちが存在し、後の1955年暮れには待遇の改善を求めてハバロフスク収容所で大暴動が起こっていたような状態だったので、日本政府は何よりも抑留者たちの帰還を優先して交渉を行った。ちなみに、日本側の推計ではシベリア抑留者中の死亡者数は5万人であったが、交渉中期にソ連が提出した死亡者リストでは死亡者は6名だけとなっていた。また、戦争・占領時の混乱のため、兵士や民間人が未帰還である理由について戦死によるものか抑留中なのかその他の理由により死亡したのか区別ができなかったので、日本側は交渉初期に生存者リストを渡すようにもソ連に要求している。それに対するソ連の回答は、総計数だけを公表して軍民合わせて千数百名とのことだった。交渉団一行を取り囲んで非常に多数の未帰還者たちの家族が羽田で見送っていたように、日本側にとって抑留者の帰還は切実な問題であったので、交渉の冒頭で「抑留者の問題は人道上の問題であるから、この平和条約についての交渉から切り離して大至急行うこと」をソ連に要請した。しかし、ソ連は平和条約から切り離して処理することを承認しなかった。後には、「戦争捕虜であるのだから、平和条約が締結されないのであれば捕虜は帰せない」という恫喝も行い、不利な条件での条約締結を日本に迫っている。日本が二番目の優先度で主張したのが領土問題である。その他に「北方漁業の問題」や「日本の国連加盟」などが話し合われたが、領土問題とは関係ないので深く追求しない。

領土問題については、最初に、日本側主張の概要として以下のようにソ連に伝えた。

 「歯舞・色丹・千島列島・南樺太は日本の領土である」

これに対し、ソ連は以下のように反論した。

 「領土問題は、ヤルタ協定、ポツダム宣言、SCAPIN677号で解決済みだ」

ソ連の示した反論は全て正当な理由となりえない。ヤルタ協定については「1、第二次世界大戦末期まで(歴史、カイロ宣言、ポツダム宣言、ヤルタ協定) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01」に既述したように、領土を放棄させられる国が参加していない密条約であったため国際法上は無効である。むしろ、現在の国際社会においては秘密裏に他国の領土を得る約束をすること自体が国際信義に著しく反する恥ずべき行為として、密約束による領土割譲を主張する方が法的・道義的に厳しく非難される状況にある。次に、ポツダム宣言については、ソ連が第8項(以下再掲)の中の都合の良い部分だけを抜き出しているため、論理を構成しえない。

 八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、
   北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

ソ連は、上の条文の「吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」という部分を強調して「ソ連は連合国により樺太や千島の占領を認められていたから領土である旨」を主張した。しかし、ソ連によるそれらの措置が正当化される前提として「『カイロ』宣言ノ条項ハ履行セラルヘク」という条件が課されていることを省略して考慮していないのだから、ソ連の主張は明らかな間違いである。カイロ宣言には既述したように「戦争によって得たのではない日本の領土は保障される旨」が明記されているのであるから、上記条文全体は「日本の領土を保障したもの」と読むことしかできない。そもそも、占領政策は領土の画定とは全くの別物であることは火を見るより明らかであり、もしもソ連の論理が通用するのであれば、日本全土を占領t統治した米英加豪軍などが今現在も日本全土を領有していることになるからソ連の主張は論理破綻している。戦争後の領土の画定というのは正式な条約によるものであることは言を俟たない。このことは、SCAPIN677号((17)参照)を引用したソ連の主張についても言える。

 (17) https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B9%B2%E3%81%AE%E5%A4%96%E3%81%8B%E3%81%8F%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%82%92%E6%94%BF%E6%B2%BB%E4%B8%8A%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%B8%8A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8B%E3%82%89%E5%88%86%E9%9B%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A6%9A%E6%9B%B8_(SCAPIN677)

SCAPIN677号は占領軍が発した命令であり、沖縄や千島列島などを「日本の範囲」からはずした上で占領政策を行うことが書かれている。しかし、一時的な占領政策が最終的な条約上の領土画定の根拠となるわけがないのは明らかであり、実際、同じSCAPIN677号には以下のように書かれている((18)参照)のであるから、ソ連の主張は全く意味をなさない。

 (18) 6 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある
     小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと
     解釈してはならない。

以上は、交渉冒頭でソ連に伝えた日本側主張の概要に対するソ連側の反論であるが、この後、正式な条約案を日本側が作成してソ連側に伝えた。日本側の条約案の主旨は以下のようになり、領土に対する主張が概要説明のときから緩和されている。

 (19)「歯舞・色丹・択捉・国後は日本領である。その他の千島列島と樺太
    については日本とソ連を含む連合国で会議を行いその所属を画定
    させるべきである」

日本は、この条約案を決める前にソ連の前回回答が有効か旧連合軍主要国の米英仏に聞いているが、いずれの国もサンフランシスコ講和条約では千島をソ連の領土として認めたものではないと回答したことを確認した上で交渉を行っている。特に、米国は「日本が主張する北方四島について、それらが千島に属するのかそうでないのか国際裁判をやってはどうか。そうしない場合でも、樺太と北千島を諦めることをソ連と約束するならば、米国は四島が千島とは別の日本領であるとする日本側主張に反対しない」と日本側に回答している(この回答は、ダレスの恫喝より前の段階のものである)。この日本側の条約案(19)に対するソ連側の反論の主旨は、以下のような物だった。

 (20)「ポツダム宣言とサンフランシスコ講和条約により、日本は南樺
    太と千島列島を放棄している」

ポツダム宣言を用いたソ連の主張が意味をなさないことは既述した。また、ソ連がサンフランシスコ講和条約を持ち出すことができないことも、同条約第25条の部分で既述した。しかし、日本代表はポツダム宣言に基づくソ連側の主張ついては反論したが、サンフランシスコ講和条約第25条を盾にしてソ連側主張を崩すことを行っていない(私が見た範囲の文書では)。そのため、以後の条約交渉においてソ連により頻繁に「サンフランシスコ講和条約により日本は南樺太と千島を放棄した」と指摘され、その他の要因もあって次第に交渉が不利になって行った。

代表団を送り出した国会も国内世論も非常に強気であり、四島返還は当たり前であるとした上で南樺太・千島列島の帰属を決める国際会議を開くように要求する者たちが大勢を占めていた。領土の返還運動は1945年から根室や標津町などで始まり、札幌や旭川などにも飛び火した後、交渉時には全国的な運動になっていた。特に北海道を中心とした国会議員たちは政府の「千島放棄」の説明を受け入れず、何度も国会で追及している。領土の返還を主張する者たちの方針は「四島返還プラスα」で一致していた。当時の国会においても「四島返還に加えて千島全島と樺太の返還を国際会議で諮ること」を主張する意見が大勢を占めたために、日本側代表団は領土案で引くことが出来ず、ソ連側主張とぶつかって膠着状態に陥った。ソ連は屁理屈をこねて「解決済み」とし、頑として歯舞・色丹の善意による贈与の線以上は譲らなかった。それだけではなく、日本側との意見の衝突が長く続いた結果ソ連は感情的になったようであり、2島のみの返還で決着させるという主張に加えて新たに「非軍事化」の条件を加えて日本に要求したため、会議は決裂しかけて交渉は一時暗礁に乗り上げた。

日本側にはシベリア抑留者の問題があった。また、当時、食糧事情が悪かったために重要であった北方漁業の交渉において期限を切られて「平和条約交渉の人質」とされもした。また、国連への日本加盟についてソ連が賛成するように仕向けるためにソ連との対立を避けなければならない事情もあった。さらに、与党自民党内での主導権争いなども加わったため、日本の政権担当者の間に「その他の領土は諦めて2島返還で手を打つ」という形で妥協を主張する者たちが現れた。世論や国会においては4島に加えて千島全島と南樺太の返還までもを要求する強硬派が非常な熱意をもって大多数を占めたが、外交関係者は突然「2島返還で諦めて平和条約を結ぶ」という気弱な方針に変更し、そのことを米国に相談した。この時に行われたのがダレスの恫喝である。上述のように、米国は日本からの質問に答える形でそれより一年ほど前に北方領土についての公式見解を表明していたが、米国が予期していたのとは全く異なる形で、また、日本国民の世論も踏みにじって最小の返還方針に日本の外交関係者が突如方針を変更したためにダレスは激怒したのだと思われる。実際、ダレスはその話が日本国内で漏れ、野党に追及されるような状態を嘆きながら「私は、日本のためを思ってそう主張したのだが」と嘆息している。この突然の方針変更は何としてでも条約をまとめようとした旧民主党系の鳩山一郎たちにより行われたが、日本の国益上なぜ突然そうしなければならなかったのかは不明なままである。米国のダレスの恫喝もあり、また、日本国民の激烈なる4島プラスαの返還運動もあったために、日本は正式な平和条約としてではなく仮の準平和条約(宣言)として日ソ共同宣言を結ぶこととなった。この条約では「平和条約締結後に歯舞と色丹の2島を返す」と明文化されたが、日本は4島以上の条件を堅持して、領土問題に関する最終的な解決は後日に持ち越された。

交渉の過程を振り返ると、全過程を通じてサンフランシスコ講和条約第25条による反論が行われず、ソ連に何度も同条約を引用され「日本は樺太と千島を放棄している」と詰問されて交渉が劣勢に陥ったことが日本側としては悔やまれる。また、シベリア抑留者60万人を日本国が代理して個人請求権を放棄したが、「3、サンフランシスコ講和条約 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03」の(*d)で説明したように、ソ連による国家的犯罪として行われた虐待分の請求権を交渉初期に安易に放棄したことも理解できない。日本が交渉の過程でサンフランシスコ講和条約25条を無視したソ連側の明らかに無理な主張を見逃した結果は、現在の日ロ間の交渉にも影を落としている。日本の外交関係者たちは、日米が交渉するときの前提と日ロが交渉するときの前提を同じに設定しているようだが、その非論理的な方針を改めなければロシアにもその他の国にも日本が単にごねているだけに見えることだろう。
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3、サンフランシスコ講和条約

大惨禍とともに第二次世界大戦が終結した後、数年間、日本は世界の国々からは敵国とみなされ国際社会に復帰できない状態だった。日本が国際社会に復帰したのは、1951年にサンフランシスコ講和条約((13)参照)が結ばれて約50か国との間で講和が成立した後である。

 (13) http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

日本が多数国との一括講和を希望したため、米英が中心となり対日講和条約を作ることを世界各国に呼びかけた。その結果、サンフランシスコ講和条約が結ばれることになり、条約の内容を決めるために日本及び旧連合軍を構成した西側諸国が1年以上調整を続けた。このとき、ソ連は朝鮮戦争で米国と対峙しその後に長く続く冷戦が始まった時期であったため、話し合いに参加していない。東側諸国も同様であった。

日本が千島列島を放棄したのは、以下のサンフランシスコ講和条約第2条(c)による。

 (14) 第二条(c)
 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約
 の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対する
 すべての権利、権原及び請求権を放棄する。

上記条文について調整していた時、米ソは朝鮮戦争で対峙していたため米国にはヤルタ協定で提案したソ連への権益提供を積極的に保障する意思はなく、同条約締結に先立ち米上院で議論が行われた際、米上院では「ヤルタ協定を無効とすること」が議決され確認されていた。そういう状況にあったため、第2条に関しての各国間の調整において米国はヤルタ協定を反故にしたい旨を英国に打診したが、大戦時に東南アジアで日本軍により大損害を被った英国やオランダでは国内の反日感情が大変強く、英国が懲罰的な意味から「日本がソ連に領土を割譲することを条約中で明記しろ」と強く主張して譲らなかった。米国の対日感情もよかったとは言えない時代であり、また、米国は敵対する相手ではあってもソ連が参加する全面講和条約の成立を志向していたこともあって、やはり懲罰的な意味を込めて「日本からソ連に向けた割譲ではなく、日本にただ領土を放棄させる」と譲歩することで英国に承認させて千島列島に関する条文をまとめ、ソ連が条約に参加することを待った。ソ連が同条約を批准すればソ連は同条約を用いて「日本は樺太・千島を放棄している」と自動的に主張できることになるから、そう設定して米国はソ連が対日講和条約を批准するように仕向けた。

ただし、ソ連が条約に参加しないのに権利や利益を得ることを防ぐため、米国は「当該条約を批准しない国は、当該条約の条文を使っていかなる利益も引き出せない旨」の条文を新たに第25条として加えた。(以下参照)

 (15) 第二十五条
 この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二
 十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合
 に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二
 十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国で
 ないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるもので
 はない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいか
 なる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のため
 に減損され、又は害されるものとみなしてはならない。

この25条の存在は、同条約を批准していない国に対しては強力であり、法的・公的に一切の権利をサンフランシスコ講和条約から導けないことになる。日本が樺太・千島を放棄することが規定されている条約はサンフランシスコ講和条約唯一つであるから、25条の存在により、同条約を批准していない国が日本に対して「樺太・千島を放棄している」と指摘できる可能性は0ということになる。対ソ(ロ)交渉においては、この規定がもっと積極的に使われるべきであったのに、後述する日ソ共同宣言の条約締結交渉時にそれらが使われた痕跡が見えない。そのため、市販の書物に書かれた交渉過程を読む限り、ソ連によって何度も「日本はサンフランシスコ講和条約により樺太・千島を放棄している」と指摘・主張され、交渉において日本側が守勢となっている。

当然のことながら、サンフランシスコ講和条約を批准し同条約の条文を利用して利益を得ようとする国には、任意の他の批准国が紛争として国際裁判所に提訴した場合、自動的にその裁判を受けなければいけない義務((16)参照)が規定されている。

 (16) 第二十二条
 この条約のいずれかの当事国が特別請求権裁判所への付託又は他の合意さ
 れた方法で解決されない条約の解釈又は実施に関する紛争が生じたと認め
 るときは、紛争は、いずれかの紛争当事国の要請により、国際司法裁判所
 に決定のため付託しなければならない。日本国及びまだ国際司法裁判所規
 程の当事国でない連合国は、それぞれがこの条約を批准する時に、且つ、
 千九百四十六年十月十五日の国際連合安全保障理事会の決議に従つて、こ
 の条に掲げた性質をもつすべての紛争に関して一般的に同裁判所の管轄権
 を特別の合意なしに受諾する一般的宣言書を同裁判所書記に寄託するもの
 とする。

米国は、この条項により「日本側に不満があるときは、裁判で解決する道」を残した。実際、サンフランシスコ講和会議において、米国代表は「歯舞・色丹などは放棄した千島列島に含まれないと米国は考えているが、もし紛争があるのならば22条により解決されるべき旨」を述べている。この発言は、日本政府による交渉段階における米国への説明と日本代表の吉田茂による「千島は日本が平和的に得た領土であり、ソ連の主張する『暴力や戦争で得た領土』には当たらない旨」の主張に呼応してなされたものである。また、米国は「この条約が決定的なものではない旨」「もし疑点があれば、この条約以外の国際的な解決手段に任されるべき将来の可能性を残す旨」も発言している。つまり、サンフランシスコ講和条約による取り決めは最終的な決定ではなく大枠を決めただけのものであり、細部の決定は国際裁判等の手段に残されていることになる。

米国は以上のように条文を準備してソ連が条約に参加することを待ったが、結局、ソ連はサンフランシスコ講和条約を批准しなかった。この結果、樺太・千島に関しては、日本が千島列島を名宛人もなくただ放棄させられただけになった。一方、ソ連も条約を批准しなかったため、上述の第25条により、「日本が同地域を放棄したこと」及び「ソ連が同地域を領有する根拠」を何ら主張できない状態になった。

ソ連は同条約を批准していないから、日本が国際裁判所へ提訴してもそれを受ける義務は発生しない。実際、1972年に大平外相が提案した「国際裁判による領土問題の解決」をソ連は断っている。しかし、ソ連(ロシア)は同条約を使い「日本が樺太・千島を放棄した」と主張しているから、ソ連(ロシア)は「義務を果たさずに、権利だけを主張している状態」になっている。日本政府は、このような国際法上なんの根拠も存在しないソ連による千島領有について「不法占拠である」と主張している。いずれにしても、ソ連が同条約を批准しなかったために、日ソ間に何も平和条約的なものが存在していない状態が続いた。日ソ間の戦争処理と領土問題の解決は、サンフランシスコ講和条約とは別の新しい条約に任されることになった。これは、サンフランシスコ講和条約が予見して企図していた戦後処理の方法でもある。

(*d) 領土問題とは関係ないが、サンフランシスコ講和条約では基本を「無賠償」としたが、英蘭軍捕虜に対する日本の国家的な戦時国際法違反による虐待行為については例外的に補償の対象とした。このことは、後にフランスによって提唱された「個人の人権は、国家によって勝手にデロゲーションされない(国が勝手に個人の請求権を奪えない)」という考え方の先駆けになっている。わざわざこう指摘したのは、前回の「2、終戦前後に起こったこと(日ソ間の出来事) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-02」で述べたシベリア抑留者の問題と関係するからである。
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2、終戦前後に起こったこと(日ソ間の出来事)

日本は1946年までヤルタ協定の存在を知らずに終戦間際までソ連が中立を守ることを信じながら、ソ連に日本と連合国との間の和平の仲介を依頼していた。ソ連は、ヤルタ協定に応じると米英に対し既に返答していたが直ちに出兵せず、また、日本からの和平交渉の仲介の依頼にも応じずに数か月が経過している。ソ連としては、早くに参戦すれば自軍に大きな損害が出る可能性が高く、また参戦を逃せばヤルタ協定の権利が得られなくなるから、日本からの依頼にも米英からの依頼にもどちらにも応じずに機を見計らっていたと言われる。やがて、1945年7月に米国が原子爆弾の開発に成功したことにより、米国は自軍の死者が100万人を超えると予想された太平洋側からの正面作戦を回避できる見通しとなった。8月6日、米国が最初の原子爆弾を広島に落とすと参戦の機会を逃すことを恐れたロシアは慌てて準備を行い、日本との中立条約を破って8月9日未明より満州に侵攻を開始した。

(*c) 中立条約違反を国際法違反として、以降のソ連による樺太・千島占領の違法性を主張する意見があるが、ソ連の行為は東京裁判において「日本の侵略行為に対する緊急避難的措置」として承認されているため、この意見を推す者たちはあまり多くない。

ソ連参戦の数時間後に2発目の原爆が長崎に投下されると、日本は戦局が一気に悪化したことを認めて数日にしてただちに降伏することを決意し、8月14日に連合国に対してポツダム宣言を受諾する旨を通告し、日本国民に対しては翌8月15日に終戦の詔勅を告示して戦争が終結した。ポツダム宣言の調印は日本と連合国の双方の代表が揃った9月2日に行われたため、ソ連は9月2日を正式な終戦の日としている。

終戦前後に、戦後の日ソ間の条約交渉に大きな影響を与えた出来事が起こっている。ソ連が、軍事的に侵攻しただけではなく、日本人民間人20数万人を殺害し日本人60万人をシベリアに連れ去ったことである。

満州の日本軍精鋭部隊は対米英戦のために南方に出払っていたが、それでも数少ない部隊で満州に侵攻したソ連軍を食い止めていた。しかし、8月16日の天皇による停戦命令と8月18日のマッカーサーによる再度の停戦命令により、満州の日本軍部隊は抵抗をやめソ連軍に逐次投降した。満州や朝鮮で日ソの戦闘があったのは、実質1週間ほどということになる。ソ連軍は、満州侵攻に数日遅れて樺太・千島などにも侵攻して次々と占領した。天皇とマッカーサーによる停戦命令があったため、それらの地域の日本軍は「混乱を防ぐ自衛のための戦闘」以外は行うことが出来なかった。連合軍にも知らされた日本側からの降伏の意思表示により、英米軍は戦闘をやめて日本軍の武装解除と日本軍捕虜の収容を始めていたが、9月2日の調印式までは「戦争中」と主張したソ連は日本領に対する侵攻と戦闘を続けた。そのため、それらの地域では9月5日まで小戦闘が繰り返された。このようにして、ソ連は参戦後3週間ほどでわずかな損害を出しただけで満州・朝鮮半島・樺太・千島列島を占領した。

日本軍が投降した後の各地のソ連軍占領地域には、女子供と老人を中心とした民間人が満州だけでも200万人弱残された。そのような状況において、ソ連兵は面白半分に老人や子供を殺し、女を犯して殺し、人々から物を奪って殺すという暴虐な行為を始めた。子供を射撃の標的にして殺し、白昼大通りで堂々と衆人環視の中で女を強姦して面白がりその後どこかに連れ去って殺し、それらを批判的な目で見ていた老人に難癖をつけて殴り殺すというように、他の占領地の占領軍では考えられない数々の暴挙が行われた。ベルリンにおけるソ連兵による強姦の嵐は知られていても、満州や朝鮮における強姦のみならず殺人や略奪などの数々の蛮行はあまり知られていないようだ。ソ連兵による暴虐行為の結果、戦闘に巻き込まれたと思われる死者数と合わせると、20数万人の日本人民間人が満州などから未帰還となっている。

また、ソ連は「軍人」と称して農民やその他の民間人を含む占領地の男という男60万人を「捕虜」として占領地からシベリアなどに連れ去った。「シベリア抑留者」と呼ばれる彼らに待っていたのは、シベリアの極寒の気候の下で何の対策もなされていない板張りの施設(これらは収容者の自作である)に収容されて、乏しい食糧配給の下で重労働をさせられるという運命だった。過酷な環境下での虐待行為が1945年の戦争終結から11年間続いた結果、軍人を中心として6万人弱の日本人が衰弱死して命を落としている。国際条約上、相手国が降伏して戦闘が終了すれば侵攻して捕虜をとることはできない。ましてや、軍人ではない民間人を多数連れ去り、ロシア人が誰も行きたがらないシベリアなどで極寒の気候への対策もせずにわずかな食糧配給の下で鉄道敷設や工場建設、道路建設などの労働力として戦後11年間も使い続けた行為は明らかな国際法違反である。米英蘭中は戦争終結とともに直ちに捕虜の日本への帰還を始め、約2年のうちに極少数の特殊な事情のある者たち以外を帰国させたことと比較して、ソ連の行った行為は各種の国際法に違反し、ソ連自身が保障したカイロ宣言の条文(以下再掲)にも違反する。

 九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ
   平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ

ソ連軍の暴挙については例えば以下のページなどからその一部を知ることができるが、検索エンジンから引けばその他のおどろおどろしい話まで色々と転がっているので、興味がある者は調べてみるとよいだろう。

(9) https://www.sankei.com/premium/news/150808/prm1508080034-n1.html
(10) https://digital.asahi.com/articles/ASLCL2R5DLCLOIPE002.html
(11) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E6%A0%B9%E5%BB%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(12) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99

これらのソ連軍による日本人への虐待行為が戦後の日本人の対ロ感情を著しく悪化させ、補償問題などについても国内の議論が紛糾したため、戦後の対ロ平和条約の締結交渉の始まりが遅延する要因となった。また、後述するように、条約の交渉が始まっても依然としてシベリア抑留者という「人質」がソ連に囚われていたために、日本が交渉において各種譲歩を余儀なくされる要因となった。
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