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4、日ソ共同宣言(現状の原型)

サンフランシスコ講和条約の締結により、日本は西側諸国の一員として国際社会に復帰した。しかし、ソ連や中国などの東側諸国は同条約を批准しなかったため、それらの国々との間には個別の平和条約を結ぶ必要があった。ソ連は、戦後11年経っても依然として日本人をシベリアなどに抑留して酷使し続けている状態だった。日本人抑留者たちは最初の2年ほどで約4万人が衰弱死し、その後9年間続いた抑留の間に更に2万人が次々と死んで行っている状況だったので、日本側には何としてもソ連と交渉してシベリア抑留者を早急に帰還させるという喫緊の課題が存在した。また、日本は米国の助力により西側の国際社会に復帰できたが、米国と冷戦中のソ連は日本のことを快く思わず、日本の国連参加に反対していた。そのため、日本には国連に加盟して東側諸国も含む全世界的な国際社会に完全に復帰するという目的も存在した。しかし、時代はスターリンによる膨張主義と圧制が行われていた冷戦真っただ中であり、西側諸国の日本がソ連と話し合いを持てるような状態ではなかった。やがて1953年にスターリンが死亡すると、フルシチョフはソ連の外交方針を米国との共存を目指す平和路線に緩和させた。そのような雪解けの雰囲気の中で、1954年暮れに日本側で内閣が変わり外相が対ソ融和的な発言をするとソ連もそれに呼応した結果、日ソで平和条約締結の機運が高まり数か月にして平和条約締結のための交渉が始まった。

日ソ共同宣言の内容についての具体的交渉が始まったのは1955年5月である。この時はまだシベリア抑留者たちが存在し、後の1955年暮れには待遇の改善を求めてハバロフスク収容所で大暴動が起こっていたような状態だったので、日本政府は何よりも抑留者たちの帰還を優先して交渉を行った。ちなみに、日本側の推計ではシベリア抑留者中の死亡者数は5万人であったが、交渉中期にソ連が提出した死亡者リストでは死亡者は6名だけとなっていた。また、戦争・占領時の混乱のため、兵士や民間人が未帰還である理由について戦死によるものか抑留中なのかその他の理由により死亡したのか区別ができなかったので、日本側は交渉初期に生存者リストを渡すようにもソ連に要求している。それに対するソ連の回答は、総計数だけを公表して軍民合わせて千数百名とのことだった。交渉団一行を取り囲んで非常に多数の未帰還者たちの家族が羽田で見送っていたように、日本側にとって抑留者の帰還は切実な問題であったので、交渉の冒頭で「抑留者の問題は人道上の問題であるから、この平和条約についての交渉から切り離して大至急行うこと」をソ連に要請した。しかし、ソ連は平和条約から切り離して処理することを承認しなかった。後には、「戦争捕虜であるのだから、平和条約が締結されないのであれば捕虜は帰せない」という恫喝も行い、不利な条件での条約締結を日本に迫っている。日本が二番目の優先度で主張したのが領土問題である。その他に「北方漁業の問題」や「日本の国連加盟」などが話し合われたが、領土問題とは関係ないので深く追求しない。

領土問題については、最初に、日本側主張の概要として以下のようにソ連に伝えた。

 「歯舞・色丹・千島列島・南樺太は日本の領土である」

これに対し、ソ連は以下のように反論した。

 「領土問題は、ヤルタ協定、ポツダム宣言、SCAPIN677号で解決済みだ」

ソ連の示した反論は全て正当な理由となりえない。ヤルタ協定については「1、第二次世界大戦末期まで(歴史、カイロ宣言、ポツダム宣言、ヤルタ協定) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01」に既述したように、領土を放棄させられる国が参加していない密条約であったため国際法上は無効である。むしろ、現在の国際社会においては秘密裏に他国の領土を得る約束をすること自体が国際信義に著しく反する恥ずべき行為として、密約束による領土割譲を主張する方が法的・道義的に厳しく非難される状況にある。次に、ポツダム宣言については、ソ連が第8項(以下再掲)の中の都合の良い部分だけを抜き出しているため、論理を構成しえない。

 八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、
   北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

ソ連は、上の条文の「吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」という部分を強調して「ソ連は連合国により樺太や千島の占領を認められていたから領土である旨」を主張した。しかし、ソ連によるそれらの措置が正当化される前提として「『カイロ』宣言ノ条項ハ履行セラルヘク」という条件が課されていることを省略して考慮していないのだから、ソ連の主張は明らかな間違いである。カイロ宣言には既述したように「戦争によって得たのではない日本の領土は保障される旨」が明記されているのであるから、上記条文全体は「日本の領土を保障したもの」と読むことしかできない。そもそも、占領政策は領土の画定とは全くの別物であることは火を見るより明らかであり、もしもソ連の論理が通用するのであれば、日本全土を占領t統治した米英加豪軍などが今現在も日本全土を領有していることになるからソ連の主張は論理破綻している。戦争後の領土の画定というのは正式な条約によるものであることは言を俟たない。このことは、SCAPIN677号((17)参照)を引用したソ連の主張についても言える。

 (17) https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B9%B2%E3%81%AE%E5%A4%96%E3%81%8B%E3%81%8F%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%82%92%E6%94%BF%E6%B2%BB%E4%B8%8A%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%B8%8A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8B%E3%82%89%E5%88%86%E9%9B%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A6%9A%E6%9B%B8_(SCAPIN677)

SCAPIN677号は占領軍が発した命令であり、沖縄や千島列島などを「日本の範囲」からはずした上で占領政策を行うことが書かれている。しかし、一時的な占領政策が最終的な条約上の領土画定の根拠となるわけがないのは明らかであり、実際、同じSCAPIN677号には以下のように書かれている((18)参照)のであるから、ソ連の主張は全く意味をなさない。

 (18) 6 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある
     小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと
     解釈してはならない。

以上は、交渉冒頭でソ連に伝えた日本側主張の概要に対するソ連側の反論であるが、この後、正式な条約案を日本側が作成してソ連側に伝えた。日本側の条約案の主旨は以下のようになり、領土に対する主張が概要説明のときから緩和されている。

 (19)「歯舞・色丹・択捉・国後は日本領である。その他の千島列島と樺太
    については日本とソ連を含む連合国で会議を行いその所属を画定
    させるべきである」

日本は、この条約案を決める前にソ連の前回回答が有効か旧連合軍主要国の米英仏に聞いているが、いずれの国もサンフランシスコ講和条約では千島をソ連の領土として認めたものではないと回答したことを確認した上で交渉を行っている。特に、米国は「日本が主張する北方四島について、それらが千島に属するのかそうでないのか国際裁判をやってはどうか。そうしない場合でも、樺太と北千島を諦めることをソ連と約束するならば、米国は四島が千島とは別の日本領であるとする日本側主張に反対しない」と日本側に回答している(この回答は、ダレスの恫喝より前の段階のものである)。この日本側の条約案(19)に対するソ連側の反論の主旨は、以下のような物だった。

 (20)「ポツダム宣言とサンフランシスコ講和条約により、日本は南樺
    太と千島列島を放棄している」

ポツダム宣言を用いたソ連の主張が意味をなさないことは既述した。また、ソ連がサンフランシスコ講和条約を持ち出すことができないことも、同条約第25条の部分で既述した。しかし、日本代表はポツダム宣言に基づくソ連側の主張ついては反論したが、サンフランシスコ講和条約第25条を盾にしてソ連側主張を崩すことを行っていない(私が見た範囲の文書では)。そのため、以後の条約交渉においてソ連により頻繁に「サンフランシスコ講和条約により日本は南樺太と千島を放棄した」と指摘され、その他の要因もあって次第に交渉が不利になって行った。

代表団を送り出した国会も国内世論も非常に強気であり、四島返還は当たり前であるとした上で南樺太・千島列島の帰属を決める国際会議を開くように要求する者たちが大勢を占めていた。領土の返還運動は1945年から根室や標津町などで始まり、札幌や旭川などにも飛び火した後、交渉時には全国的な運動になっていた。特に北海道を中心とした国会議員たちは政府の「千島放棄」の説明を受け入れず、何度も国会で追及している。領土の返還を主張する者たちの方針は「四島返還プラスα」で一致していた。当時の国会においても「四島返還に加えて千島全島と樺太の返還を国際会議で諮ること」を主張する意見が大勢を占めたために、日本側代表団は領土案で引くことが出来ず、ソ連側主張とぶつかって膠着状態に陥った。ソ連は屁理屈をこねて「解決済み」とし、頑として歯舞・色丹の善意による贈与の線以上は譲らなかった。それだけではなく、日本側との意見の衝突が長く続いた結果ソ連は感情的になったようであり、2島のみの返還で決着させるという主張に加えて新たに「非軍事化」の条件を加えて日本に要求したため、会議は決裂しかけて交渉は一時暗礁に乗り上げた。

日本側にはシベリア抑留者の問題があった。また、当時、食糧事情が悪かったために重要であった北方漁業の交渉において期限を切られて「平和条約交渉の人質」とされもした。また、国連への日本加盟についてソ連が賛成するように仕向けるためにソ連との対立を避けなければならない事情もあった。さらに、与党自民党内での主導権争いなども加わったため、日本の政権担当者の間に「その他の領土は諦めて2島返還で手を打つ」という形で妥協を主張する者たちが現れた。世論や国会においては4島に加えて千島全島と南樺太の返還までもを要求する強硬派が非常な熱意をもって大多数を占めたが、外交関係者は突然「2島返還で諦めて平和条約を結ぶ」という気弱な方針に変更し、そのことを米国に相談した。この時に行われたのがダレスの恫喝である。上述のように、米国は日本からの質問に答える形でそれより一年ほど前に北方領土についての公式見解を表明していたが、米国が予期していたのとは全く異なる形で、また、日本国民の世論も踏みにじって最小の返還方針に日本の外交関係者が突如方針を変更したためにダレスは激怒したのだと思われる。実際、ダレスはその話が日本国内で漏れ、野党に追及されるような状態を嘆きながら「私は、日本のためを思ってそう主張したのだが」と嘆息している。この突然の方針変更は何としてでも条約をまとめようとした旧民主党系の鳩山一郎たちにより行われたが、日本の国益上なぜ突然そうしなければならなかったのかは不明なままである。米国のダレスの恫喝もあり、また、日本国民の激烈なる4島プラスαの返還運動もあったために、日本は正式な平和条約としてではなく仮の準平和条約(宣言)として日ソ共同宣言を結ぶこととなった。この条約では「平和条約締結後に歯舞と色丹の2島を返す」と明文化されたが、日本は4島以上の条件を堅持して、領土問題に関する最終的な解決は後日に持ち越された。

交渉の過程を振り返ると、全過程を通じてサンフランシスコ講和条約第25条による反論が行われず、ソ連に何度も同条約を引用され「日本は樺太と千島を放棄している」と詰問されて交渉が劣勢に陥ったことが日本側としては悔やまれる。また、シベリア抑留者60万人を日本国が代理して個人請求権を放棄したが、「3、サンフランシスコ講和条約 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03」の(*d)で説明したように、ソ連による国家的犯罪として行われた虐待分の請求権を交渉初期に安易に放棄したことも理解できない。日本が交渉の過程でサンフランシスコ講和条約25条を無視したソ連側の明らかに無理な主張を見逃した結果は、現在の日ロ間の交渉にも影を落としている。日本の外交関係者たちは、日米が交渉するときの前提と日ロが交渉するときの前提を同じに設定しているようだが、その非論理的な方針を改めなければロシアにもその他の国にも日本が単にごねているだけに見えることだろう。
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3、サンフランシスコ講和条約

大惨禍とともに第二次世界大戦が終結した後、数年間、日本は世界の国々からは敵国とみなされ国際社会に復帰できない状態だった。日本が国際社会に復帰したのは、1951年にサンフランシスコ講和条約((13)参照)が結ばれて約50か国との間で講和が成立した後である。

 (13) http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

日本が多数国との一括講和を希望したため、米英が中心となり対日講和条約を作ることを世界各国に呼びかけた。その結果、サンフランシスコ講和条約が結ばれることになり、条約の内容を決めるために日本及び旧連合軍を構成した西側諸国が1年以上調整を続けた。このとき、ソ連は朝鮮戦争で米国と対峙しその後に長く続く冷戦が始まった時期であったため、話し合いに参加していない。東側諸国も同様であった。

日本が千島列島を放棄したのは、以下のサンフランシスコ講和条約第2条(c)による。

 (14) 第二条(c)
 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約
 の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対する
 すべての権利、権原及び請求権を放棄する。

上記条文について調整していた時、米ソは朝鮮戦争で対峙していたため米国にはヤルタ協定で提案したソ連への権益提供を積極的に保障する意思はなく、同条約締結に先立ち米上院で議論が行われた際、米上院では「ヤルタ協定を無効とすること」が議決され確認されていた。そういう状況にあったため、第2条に関しての各国間の調整において米国はヤルタ協定を反故にしたい旨を英国に打診したが、大戦時に東南アジアで日本軍により大損害を被った英国やオランダでは国内の反日感情が大変強く、英国が懲罰的な意味から「日本がソ連に領土を割譲することを条約中で明記しろ」と強く主張して譲らなかった。米国の対日感情もよかったとは言えない時代であり、また、米国は敵対する相手ではあってもソ連が参加する全面講和条約の成立を志向していたこともあって、やはり懲罰的な意味を込めて「日本からソ連に向けた割譲ではなく、日本にただ領土を放棄させる」と譲歩することで英国に承認させて千島列島に関する条文をまとめ、ソ連が条約に参加することを待った。ソ連が同条約を批准すればソ連は同条約を用いて「日本は樺太・千島を放棄している」と自動的に主張できることになるから、そう設定して米国はソ連が対日講和条約を批准するように仕向けた。

ただし、ソ連が条約に参加しないのに権利や利益を得ることを防ぐため、米国は「当該条約を批准しない国は、当該条約の条文を使っていかなる利益も引き出せない旨」の条文を新たに第25条として加えた。(以下参照)

 (15) 第二十五条
 この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二
 十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合
 に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二
 十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国で
 ないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるもので
 はない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいか
 なる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のため
 に減損され、又は害されるものとみなしてはならない。

この25条の存在は、同条約を批准していない国に対しては強力であり、法的・公的に一切の権利をサンフランシスコ講和条約から導けないことになる。日本が樺太・千島を放棄することが規定されている条約はサンフランシスコ講和条約唯一つであるから、25条の存在により、同条約を批准していない国が日本に対して「樺太・千島を放棄している」と指摘できる可能性は0ということになる。対ソ(ロ)交渉においては、この規定がもっと積極的に使われるべきであったのに、後述する日ソ共同宣言の条約締結交渉時にそれらが使われた痕跡が見えない。そのため、市販の書物に書かれた交渉過程を読む限り、ソ連によって何度も「日本はサンフランシスコ講和条約により樺太・千島を放棄している」と指摘・主張され、交渉において日本側が守勢となっている。

当然のことながら、サンフランシスコ講和条約を批准し同条約の条文を利用して利益を得ようとする国には、任意の他の批准国が紛争として国際裁判所に提訴した場合、自動的にその裁判を受けなければいけない義務((16)参照)が規定されている。

 (16) 第二十二条
 この条約のいずれかの当事国が特別請求権裁判所への付託又は他の合意さ
 れた方法で解決されない条約の解釈又は実施に関する紛争が生じたと認め
 るときは、紛争は、いずれかの紛争当事国の要請により、国際司法裁判所
 に決定のため付託しなければならない。日本国及びまだ国際司法裁判所規
 程の当事国でない連合国は、それぞれがこの条約を批准する時に、且つ、
 千九百四十六年十月十五日の国際連合安全保障理事会の決議に従つて、こ
 の条に掲げた性質をもつすべての紛争に関して一般的に同裁判所の管轄権
 を特別の合意なしに受諾する一般的宣言書を同裁判所書記に寄託するもの
 とする。

米国は、この条項により「日本側に不満があるときは、裁判で解決する道」を残した。実際、サンフランシスコ講和会議において、米国代表は「歯舞・色丹などは放棄した千島列島に含まれないと米国は考えているが、もし紛争があるのならば22条により解決されるべき旨」を述べている。この発言は、日本政府による交渉段階における米国への説明と日本代表の吉田茂による「千島は日本が平和的に得た領土であり、ソ連の主張する『暴力や戦争で得た領土』には当たらない旨」の主張に呼応してなされたものである。また、米国は「この条約が決定的なものではない旨」「もし疑点があれば、この条約以外の国際的な解決手段に任されるべき将来の可能性を残す旨」も発言している。つまり、サンフランシスコ講和条約による取り決めは最終的な決定ではなく大枠を決めただけのものであり、細部の決定は国際裁判等の手段に残されていることになる。

米国は以上のように条文を準備してソ連が条約に参加することを待ったが、結局、ソ連はサンフランシスコ講和条約を批准しなかった。この結果、樺太・千島に関しては、日本が千島列島を名宛人もなくただ放棄させられただけになった。一方、ソ連も条約を批准しなかったため、上述の第25条により、「日本が同地域を放棄したこと」及び「ソ連が同地域を領有する根拠」を何ら主張できない状態になった。

ソ連は同条約を批准していないから、日本が国際裁判所へ提訴してもそれを受ける義務は発生しない。実際、1972年に大平外相が提案した「国際裁判による領土問題の解決」をソ連は断っている。しかし、ソ連(ロシア)は同条約を使い「日本が樺太・千島を放棄した」と主張しているから、ソ連(ロシア)は「義務を果たさずに、権利だけを主張している状態」になっている。日本政府は、このような国際法上なんの根拠も存在しないソ連による千島領有について「不法占拠である」と主張している。いずれにしても、ソ連が同条約を批准しなかったために、日ソ間に何も平和条約的なものが存在していない状態が続いた。日ソ間の戦争処理と領土問題の解決は、サンフランシスコ講和条約とは別の新しい条約に任されることになった。これは、サンフランシスコ講和条約が予見して企図していた戦後処理の方法でもある。

(*d) 領土問題とは関係ないが、サンフランシスコ講和条約では基本を「無賠償」としたが、英蘭軍捕虜に対する日本の国家的な戦時国際法違反による虐待行為については例外的に補償の対象とした。このことは、後にフランスによって提唱された「個人の人権は、国家によって勝手にデロゲーションされない(国が勝手に個人の請求権を奪えない)」という考え方の先駆けになっている。わざわざこう指摘したのは、前回の「2、終戦前後に起こったこと(日ソ間の出来事) https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-02」で述べたシベリア抑留者の問題と関係するからである。
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2、終戦前後に起こったこと(日ソ間の出来事)

日本は1946年までヤルタ協定の存在を知らずに終戦間際までソ連が中立を守ることを信じながら、ソ連に日本と連合国との間の和平の仲介を依頼していた。ソ連は、ヤルタ協定に応じると米英に対し既に返答していたが直ちに出兵せず、また、日本からの和平交渉の仲介の依頼にも応じずに数か月が経過している。ソ連としては、早くに参戦すれば自軍に大きな損害が出る可能性が高く、また参戦を逃せばヤルタ協定の権利が得られなくなるから、日本からの依頼にも米英からの依頼にもどちらにも応じずに機を見計らっていたと言われる。やがて、1945年7月に米国が原子爆弾の開発に成功したことにより、米国は自軍の死者が100万人を超えると予想された太平洋側からの正面作戦を回避できる見通しとなった。8月6日、米国が最初の原子爆弾を広島に落とすと参戦の機会を逃すことを恐れたロシアは慌てて準備を行い、日本との中立条約を破って8月9日未明より満州に侵攻を開始した。

(*c) 中立条約違反を国際法違反として、以降のソ連による樺太・千島占領の違法性を主張する意見があるが、ソ連の行為は東京裁判において「日本の侵略行為に対する緊急避難的措置」として承認されているため、この意見を推す者たちはあまり多くない。

ソ連参戦の数時間後に2発目の原爆が長崎に投下されると、日本は戦局が一気に悪化したことを認めて数日にしてただちに降伏することを決意し、8月14日に連合国に対してポツダム宣言を受諾する旨を通告し、日本国民に対しては翌8月15日に終戦の詔勅を告示して戦争が終結した。ポツダム宣言の調印は日本と連合国の双方の代表が揃った9月2日に行われたため、ソ連は9月2日を正式な終戦の日としている。

終戦前後に、戦後の日ソ間の条約交渉に大きな影響を与えた出来事が起こっている。ソ連が、軍事的に侵攻しただけではなく、日本人民間人20数万人を殺害し日本人60万人をシベリアに連れ去ったことである。

満州の日本軍精鋭部隊は対米英戦のために南方に出払っていたが、それでも数少ない部隊で満州に侵攻したソ連軍を食い止めていた。しかし、8月16日の天皇による停戦命令と8月18日のマッカーサーによる再度の停戦命令により、満州の日本軍部隊は抵抗をやめソ連軍に逐次投降した。満州や朝鮮で日ソの戦闘があったのは、実質1週間ほどということになる。ソ連軍は、満州侵攻に数日遅れて樺太・千島などにも侵攻して次々と占領した。天皇とマッカーサーによる停戦命令があったため、それらの地域の日本軍は「混乱を防ぐ自衛のための戦闘」以外は行うことが出来なかった。連合軍にも知らされた日本側からの降伏の意思表示により、英米軍は戦闘をやめて日本軍の武装解除と日本軍捕虜の収容を始めていたが、9月2日の調印式までは「戦争中」と主張したソ連は日本領に対する侵攻と戦闘を続けた。そのため、それらの地域では9月5日まで小戦闘が繰り返された。このようにして、ソ連は参戦後3週間ほどでわずかな損害を出しただけで満州・朝鮮半島・樺太・千島列島を占領した。

日本軍が投降した後の各地のソ連軍占領地域には、女子供と老人を中心とした民間人が満州だけでも200万人弱残された。そのような状況において、ソ連兵は面白半分に老人や子供を殺し、女を犯して殺し、人々から物を奪って殺すという暴虐な行為を始めた。子供を射撃の標的にして殺し、白昼大通りで堂々と衆人環視の中で女を強姦して面白がりその後どこかに連れ去って殺し、それらを批判的な目で見ていた老人に難癖をつけて殴り殺すというように、他の占領地の占領軍では考えられない数々の暴挙が行われた。ベルリンにおけるソ連兵による強姦の嵐は知られていても、満州や朝鮮における強姦のみならず殺人や略奪などの数々の蛮行はあまり知られていないようだ。ソ連兵による暴虐行為の結果、戦闘に巻き込まれたと思われる死者数と合わせると、20数万人の日本人民間人が満州などから未帰還となっている。

また、ソ連は「軍人」と称して農民やその他の民間人を含む占領地の男という男60万人を「捕虜」として占領地からシベリアなどに連れ去った。「シベリア抑留者」と呼ばれる彼らに待っていたのは、シベリアの極寒の気候の下で何の対策もなされていない板張りの施設(これらは収容者の自作である)に収容されて、乏しい食糧配給の下で重労働をさせられるという運命だった。過酷な環境下での虐待行為が1945年の戦争終結から11年間続いた結果、軍人を中心として6万人弱の日本人が衰弱死して命を落としている。国際条約上、相手国が降伏して戦闘が終了すれば侵攻して捕虜をとることはできない。ましてや、軍人ではない民間人を多数連れ去り、ロシア人が誰も行きたがらないシベリアなどで極寒の気候への対策もせずにわずかな食糧配給の下で鉄道敷設や工場建設、道路建設などの労働力として戦後11年間も使い続けた行為は明らかな国際法違反である。米英蘭中は戦争終結とともに直ちに捕虜の日本への帰還を始め、約2年のうちに極少数の特殊な事情のある者たち以外を帰国させたことと比較して、ソ連の行った行為は各種の国際法に違反し、ソ連自身が保障したカイロ宣言の条文(以下再掲)にも違反する。

 九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ
   平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ

ソ連軍の暴挙については例えば以下のページなどからその一部を知ることができるが、検索エンジンから引けばその他のおどろおどろしい話まで色々と転がっているので、興味がある者は調べてみるとよいだろう。

(9) https://www.sankei.com/premium/news/150808/prm1508080034-n1.html
(10) https://digital.asahi.com/articles/ASLCL2R5DLCLOIPE002.html
(11) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E6%A0%B9%E5%BB%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(12) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99

これらのソ連軍による日本人への虐待行為が戦後の日本人の対ロ感情を著しく悪化させ、補償問題などについても国内の議論が紛糾したため、戦後の対ロ平和条約の締結交渉の始まりが遅延する要因となった。また、後述するように、条約の交渉が始まっても依然としてシベリア抑留者という「人質」がソ連に囚われていたために、日本が交渉において各種譲歩を余儀なくされる要因となった。
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1、第二次世界大戦末期まで(歴史、カイロ宣言、ポツダム宣言、ヤルタ協定)

戦前まで日本領だった千島列島というのは、北海道の北東部に連なる20数個の島々のことである(以下参照)。

 (1) http://imagic.qee.jp/hoppou/chishima.gif

日本政府は「国後・択捉・歯舞・色丹」の四島を「北方領土」と呼び「千島列島に含まれない」としているが、煩雑さを避けるため、以降は場合により四島を千島列島の中に包含させて説明する。

日本人は鎌倉・室町時代から北海道に進出してアイヌと抗争や交易をしていたが、江戸時代になると日本人による拠点化がさらに進み、1635年には松前藩による調査が行われ「くなしり、えとほろ、うるふ」の名前が初めて文献に正式に現れた(以下参照)。

 (2) https://www8.cao.go.jp/hoppo/3step/02.html

ヨーロッパ人としては、オランダ人が1643年に初めて千島列島を訪れたと言われている。オランダ人たちの報告を聞いたためだろうが、ロシアはその数年後に遠征隊を千島に派遣した。この時の遠征をもって「最初に千島列島を発見したのはロシアだから、北方領土はロシアの物だ」とする意見がある。しかし、日本人たちがそれより遥かに早くから千島列島に進出してアイヌたちと交易をしながら日本の経済圏に組み込んでいたことを考えれば、ロシアの主張は意味を持たない。そもそも、領土というのは発見により確定するものではなく、漁や交易などをして自国の経済圏に組み込んで自国民が長年そこで各種活動をし、警察権・司法権などを及ばせて管理した結果認められるものであるから、ロシアの「先に発見した」という主張は国際法上、何の意味も持たない。

その後、ロシアの東進政策が本格化し、中ロ国境で紛争を引き起こすとともに千島にもたびたび来訪して紛争を起こすようになったため、幕府は千島を保護する目的で直轄領とし、択捉島に番所を置いた((2)参照)。しかし、訪れるロシア人の数がさらに増えたためロシアとの国境画定が必要となり、江戸時代末期の1855年に北方四島の北に日露の国境を定めた。
 
(*a) この事実が、「北方四島は江戸時代から平和的に認められた日本固有の領土である」とする主張の根拠となっている。

江戸時代に千島の国境は画定されたものの樺太の国境は画定されず「日露の雑居地」とされていたが、明治になると樺太の国境を定めようという動きが出てくる。日本は千島四島を手放す代わりに肥沃な樺太の領有を求めたが、ロシアも肥沃な樺太を譲らず武力に訴える旨をほのめかしたため、小国であった日本は対馬事件(以下(3)参照)のような武力衝突が起こることを恐れて譲歩するしかなかった。

 (3) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%889%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

平和的な交渉の結果、1875年に日ロ間で樺太・千島交換条約((4)参照)が結ばれ、日本が樺太を諦めた代償として北方四島より北に位置していた千島18島を得た。

(*b) 1875年の条約により千島全島が、日本がロシアと平和的に話し合った結果として領土となった。この事実が共産党などによる「千島全島返還論」の根拠となっている。

 (4) https://www8.cao.go.jp/hoppo/shiryou/pdf/gaikou02.pdf

千島周辺の領有権の変遷は以下のページに簡潔にまとめられている。

 (5) https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_seisaku-gaikou20161212j-11-w570

その後、北方領土と樺太が現在の状態になったのは、第二次世界大戦の戦後処理として1951年のサンフランシスコ講和条約が結ばれたことによる。同条約により日本は樺太と千島列島を放棄した。次に、サンフランシスコ講和条約に至る前の大戦末期までの連合国側の動きを説明する。

戦前の日本は、千島・南樺太・朝鮮半島を領有していたが、満州にも干渉して中国から分離・独立させたため国際的に孤立していた。そして、日本は次第に中国利権を持つ英米との対立を深めて行った。日本は、日本と同様に英米と対立していた独・伊と同盟を結び、その後、ソ連とも中立条約を結んで英米勢力への牽制を試みた。独ソ不可侵条約も存在していたため、日本としては対英米勢力をまとめ上げることができたと考えていた。しかし、日本の思惑は外れ、突然ドイツがソ連に攻め込んで戦争を始めた。独ソ戦におけるソ連側死者数は諸説あるが、西側陣営の学者による見積もりでは900万人が定説とされ、ソ連側は反独感情も加わって戦死者は1500万人に上ると戦後に主張している。第二次世界大戦による日本人死者数は300万人ほどだから、ソ連の受けた損害は非常に大きなものだったことが分かる。このときに培われたロシア人の反独感情が、後に述べる戦後の日本人のシベリア抑留による虐待の一因になっているという説がある。また、ソ連時代の歪んだ歴史教育により、現在のロシア国民にも「日独が共謀してソ連に侵攻した」と誤って認識している者たちが多数存在するため、日ロの領土交渉がロシア国民の感情的反発によりとん挫する一因になっている。

ドイツの侵攻によりソ連が大損害を受けている間、日本は一発の銃弾も撃たずに日ソ中立条約を順守した。独ソ開戦から数か月後、日本は日ソ中立条約により後顧の憂いがなくなったと信じながら対米戦を開始する。その結果は、誰もが知る日本の敗北に終わる。この大戦中に、以下に述べる北方領土に関する重要な出来事が起こっている。

まず、1943年に米英中(国民党政府)がカイロで開いた会談において発表したカイロ宣言((6)参照)が挙げられる。これはポツダム宣言でも引用され、また、サンフランシスコ講和条約においても領土画定の指針とされたため、北方領土問題にとって非常に重要な意味を持っている。

 (6) http://www.chukai.ne.jp/~masago/cairo.html

カイロ宣言において上重要なのは、以下の部分である。

 ・同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。
 ・日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域
  から駆逐される。

カイロ宣言は米英二国による1941年の太平洋憲章の精神を米英中の三国に広げて受け継いだものであり、単に方針を述べただけにとどまらず、ポツダム宣言中において引用されたことにより日本に対して法的な履行義務を負っている。上記2番目の条項によれば、日本が平和裏に得た領土は「暴力や強欲によって得た領土ではない」から領有を保障されることになる。それによれば、(*b)に上述したように日本は全千島列島を平和裏に得ているから、本来ならば同条項により千島列島は日本に残るはずであった。そのことは吉田茂が後述のサンフランシスコ講和会議でも指摘している。しかし、ソ連が「戦争により日本が得た領土だ」と嘘をつき、反日感情の強かった米英がそれを公然と見逃したこともあって、後述するようにサンフランシスコ講和条約で日本は千島列島を放棄させられた。

次に重要なのはポツダム宣言である。ポツダム宣言は、1945年7月に米英中が、独伊の降伏した後も抵抗を続けていた日本に向けて降伏するように勧告したものである(以下参照)。

 (7) http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

連合国は戦時中からカイロ宣言やポツダム宣言について書いたビラをB29から投下し、また、日本政府にもポツダム宣言を受諾するように勧告した。最終的には、日本はポツダム宣言に書かれた内容が守られることを信じて降伏を受け入れた。ポツダム宣言は日本と連合国の代表が正式に調印式を行った国家間の約束であり、法的な義務を持つ。後にソ連も追認してポツダム宣言に加わっているから、ソ連もポツダム宣言に書かれた内容を日本に対して順守する義務がある。日ソ関係において、ポツダム宣言で重要なのは以下の部分である。

 八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、
   北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
 九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ
   平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ

この「八」にはカイロ宣言が履行されなければならない旨が書かれているから、上述したように、日本が平和裏に得た領土を日本が放棄する理由はない事になる。このことが、ソ連に対して日本が北方領土の領有を主張している強い根拠となっている。

カイロ会談・ポツダム会談とは別に、戦時中に行われた日ソ関係において重要な会談として1945年2月のヤルタ会談が存在する。この会談は英米ソの間で話し合われた会談であり、太平洋側からの日本への正面攻撃だけでは損害が大きくなることを懸念した米国がいくつかの権益を提示してソ連の参戦を促している。米国からソ連に提供することを提案された権益はすべて日本が所有していたものであり、「樺太を日本からソ連に返還させること、千島列島をソ連に明け渡すこと、満州等におけるいくつかの権益をソ連が得ること」などが示された。この3国間の密約は「ヤルタ協定」として戦後の1946年になって初めて公表された(以下参照)。

 (8) https://www8.cao.go.jp/hoppo/shiryou/pdf/gaikou07.pdf

後に、ソ連が北方領土領有の根拠としてこのヤルタ協定の存在を主張したが、米国はそれが無効であることを1951年の時点までに既に米上院で議決して確認している。また、英国もヤルタ協定が無効なことは1956年の時点で私的に態度を表明していて、1988年には日本側の「4島領有」の主張を認めると立場の変更を行っている。領土の割譲というのは領土を放棄させられる国が新しく領土を得る国に対して正式に条約を結んで初めて有効となるから、密約により勝手に他国の領土をやり取りしても国際法上は不法行為として無効とされる。米英としては、国際信義に著しく反する密約の有効性を現在においても主張することはできなくなっている。そのため、ソ連を継いだロシアにおいても、かつてのようなヤルタ協定を根拠として領有権の正当性を主張する意見は後退している。

連合国間でこれらの宣言や協定が結ばれた後、戦争は終結に向かって動いて行った。
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