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日ロの国際環境の変化

日本側には、まるでソ連やロシアの操り人形のようにおかしな意見を言う者たちが存在することは以下で指摘した。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-06

そういうおかしな者たちに騙されたのだろうが、日本の政治家にもおかしな意見の尻馬に乗っていい加減な主張をしている者たちが存在する。たとえば、以下のように主張している鈴木宗男がその典型だ。

https://dot.asahi.com/wa/2019021300081.html?page=2
>「戦中、戦後の国際的な手続きに基づいて正当に領土になったというロシアの主張は正しい。カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言などを踏まえて、北方領土は画定されたのです。

鈴木の上記発言は全く意味をなさない。カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言については既に以下で説明したから読んでいただければ、上記発言が全くのでたらめであることが明白にわかるはずだ。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-05

鈴木は、「日本側が正しいとしか言いようがないこと」を交渉のテクニックとして主張を控えているのではなく、本心から「ロシアにのみ根拠があり日本には一理もない」と考えているのだから呆れ果てたものだ。このようなでたらめな発言に加えて、鈴木は以下のようにも主張している。

>「ロシアとの領土問題交渉の基礎となるのは、1956年の日ソ共同宣言(以後56年宣言)です。平和条約締結後に、歯舞群島と色丹島の2島を日本側に引き渡すというものです。…松本さんの名著『モスクワにかける虹』を読めば、歴史的経緯がよくわかります」

鈴木が引用した松本俊一の本には、鈴木の説明とは全く違う日ソ共同宣言の交渉過程が書かれている。そこには、鈴木の主張とは真逆の「4島どころか千島全島に加えて南樺太まで考慮すべきだと日本側が主張していたこと」が記されている(以下参照)。

 「日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実 松本俊一 著 佐藤優 解説」P.203より

 八、 一 九五五年八月十六日日本側提出の条約案
       :
 第 五条 一 戦争の結果としてソヴィエト社会主義共和国連邦によつて占領
    された日本国の領土のうち、
 (a) 択捉島、国後島、色丹島及び歯舞諸島については、この条約の効力が
    生じた日に 日本国の主権が完全に回復されるものとする。
 (b) 北緯五十度以南の樺太及びこれに近接する諸島並びに千島列島につい
    ては、なるべくすみやかにソ連邦を含む連合国と日本国との間の交渉
    によりその帰属を決定するものとする。

当時の国会では保守革新ともに上記の案が大多数を占め、それ故に、全権たちが引くに引けなくなって条約交渉が暗礁に乗り上げた。そして、弱気になった全権たちが今度は「2島だけ」でソ連と手を打とうとして日本が内密に米国に相談した時、米国のダレスによって恫喝されたいきさつが書かれている。結局、日本は、米国に言われるままに上記日本側案から「北千島、南樺太」を除いた人為的でいびつな妥協案をソ連に対して主張することになった。そして、領土については画定させずに条約ではなく宣言という一段緩い形で準平和条約を結ぶことになった。

鈴木は、上記の本のどこをどう読んだのだろうか?

当時の日本側は、鈴木の言うような2島返還ではなく、4島以上の返還を強硬にソ連に対して主張していた。カイロ宣言で「日本が平和的に得た領土は保障する」と日本に約束した米英ソが約束を違えて千島列島を日本から取り上げたのだから、日本側としては当然の反応と言えるだろう。まだ弱かった明治時代の日本が樺太をロシア帝国の恫喝の前に泣く泣く諦めて痩せて狭い千島列島を押し付けられた経緯を無視し、その千島列島さえも難癖をつけて奪ったのだから、当時の日本人たちの反発は尋常ではなかったことを理解するべきだ。当時の日本人たちは、条約的根拠が一つも存在していないソ連の千島占領に対して強烈な熱意をもって「全千島を返せ」と主張していた。条約的には日本に100%の根拠がありソ連には一つも根拠がなかった。そこがソ連だけではなく、カイロ宣言を反故にして理由なく日本に千島を放棄させた米国の弱みでもあった。だからこそ、日ソ共同宣言の交渉時に米国は日本に対して以下のように提案したのだ。

 米国案1 「歯舞・色丹だけを主張して、千島列島は国際会議にかけろ。
       ただし可能性は低くなる。(他国は応援しないだろう。
       米国も応援し難い)」
 米国案2 「4島だけを主張して、その他の千島列島は諦めろ。」

この米国の提案は、ダレスの恫喝が行われる一年前に既に日本側に提示されていた。この案によれば、いずれにしても、南樺太はおろか4島以北の千島10数島に対する返還要求を日本側は諦めることになる。そして、実際に日本はそうさせられ、米国案2によりソ連に対して全千島20島の返還要求から4島返還のみを主張するように態度を変更した。その譲歩も譲歩した4島返還の要求さえソ連が拒否したため、1956年当時の交渉においては「領土については保留、その他については合意」という形になっている。どこに「日本人は2島のみの返還で納得していた」などという話が出てくるのだろうか?当時、「2島のみ返還」を主張したのは、自由党と民主党が合併してできたばかりの自民党の中の旧民主党系の中のさらに半分くらいと社会党の中の半分くらいのはずだ。その他の議員たち、つまり、自民党の中の旧自由党系の全部と旧民主党系の中の半分、野党共産党の全部、野党社会党の半分という国会での圧倒的マジョリティーは、「4島だけではなく全千島を返還しろ」と主張していた。実際、全権の重光葵が勝手に4島返還を諦めて2島返還で交渉をまとめようとしたときは閣内一致で強く反対し、交渉をまとめさせないために重光を米国に派遣して交渉の現場から外したりもしている。

米国案2というのは日本のためにもなったが、米国が日本の拡張を望んでいない面もあったようだ。1950年代というのは、同年代初頭までGHQが日本の再軍国化を恐れ兵器となりえる航空産業の規制を継続していて、また、優秀な航空機を作る技術を継承させないために東大などの航空工学科を解体したばかりの時代だ。戦争に行ってきた兵隊たちが大量に生きていた時代だったから、日本国内でも「再軍備」や「徴兵制復活」などを切望する層が大量に存在した。そういう者たちに米国は細心の注意を払い、報道規制は解かれても、戦争賛美映画への規制などは継続していた時代だ。軍国主義的な者たちを排除するために、公職追放なども行われたばかりの時代だった。1980年代になってさえ、たとえば中曽根が「不沈空母」と言っただけで米国は警戒感を露わにした。同じく1980年代においても依然として、米国南部に留学生が迷い込むと第2次世界大戦のことで因縁をつけられ、何年かに1,2件の割合で殺人事件や重度の傷害事件が起こっていた。それくらい日本に対して悪い感情を持つ層が米国には存在した。1990年近くになってさえも、次期支援戦闘機の日本独自開発などは、経済的理由もあったが再軍国化を米国によって懸念され計画が潰されている。1950年代というのは、戦争が終わったばかりであり、日本が英米蘭などに対して講和条約を結んで法律上は敵対国と認定されなくなっただけの状態であり、まだ沖縄も返還されていなければ日本と米国との絆もそれほど形成されていなかった時代だ。だから、当時の米国が日本側の「千島全島の返還」を応援するわけがなかった。ましてや、泰緬鉄道建設による捕虜虐待により5万人中1万5千人が死亡した上に日本のために広大な東南アジアの植民地を失った英国やオランダにおけるひどく悪い対日感情を考慮すれば、日本の「全千島返還」どころか「4島返還」でさえ国際社会において承認される可能性は低かった。実際、その後日本と親密になった米国は英国に何度か「ソ連から日本への4島返還」の話を持ちかけたが、その度ごとに激怒した英国が問答無用の門前払いにしている。オランダも同様の事情により当時の対日感情は非常に悪く、1971年に昭和天皇が国賓としてオランダを訪問した時などは、周り中を群衆が囲んでシュプレヒコールを上げ、生卵を投げつける者さえいたと言われる。また、天皇の乗った車に魔法瓶が投げつけられたため、車のフロントガラスがひび割れたりもした。天皇は同時に英国訪問も行ったが、記念に植樹した植物の苗が引き抜かれ、元に戻せないように苗の根に薬品がかけられたりもしている。今の日本と英蘭の関係においては、考えられないくらい両国の対日感情は悪かった。

しかし、その後、日本が平和外交を続けたことや戦争世代が消えて行ったことなどにより、両国との関係は改善して行った。北方領土の返還に大反対をしていた英国も、1990年手前くらいには「法的には日本の主張を認める」と立場を転換している。オランダにおいても、虐待を受けた元捕虜たちの世代が消えていくに従い、かつてのような反日的主張はそれほど見受けられなくなっている。

一方、ソ連についても西側諸国における見方が180度転換している。戦時中は「同志」として米国が持ち上げたソ連は、戦後になると中国に革命を輸出しただけではなく朝鮮戦争を起こした。ポーランドなどへの介入を快く思っていなかった西側諸国、特に米国は、ソ連が朝鮮半島に暴力的に介入したことによりソ連に対する態度を反転させた。しかも、その後も、ソ連はベトナムやキューバなど各地に勢力を広げようとしたため、米国を中心とした西側諸国と激しく対立した。米国においては1950年の時点でヤルタ協定を守る気など失せていた。ソ連が非人道的行為を続けた上に冷戦期を通して他国を顧みない強権的な政策を続けたためかつての西ヨーロッパの知識人たちの間に存在した社会主義国への淡い期待が完全に消え失せ、ソ連は忌み嫌われて極度に用心される対象になっていた。そういうふうにソ連が認識されるようになっていた1972年に、日本の大平外相が「北方領土問題を2国間で話し合っても埒が明かないから、国際会議にかけて解決しよう」と申し入れたことがあったが、当然ながら、その時のソ連の返答は「ニェツト(否)」であった。ソ連が国際社会に出て行けば、袋叩きに会うことは明白な情勢だったからだ。その当時から、ソ連は「2国間交渉」以外を絶対に行わない。そのことは、次回に指摘する現代のロシア側の主張においても継続している。ソ連は、2国間交渉という閉鎖された空間を利用して、次々に約束の反故を繰り返した(そういう過程についても、おいおい書いていこうと思う)。そして、都合が悪くなると鉄のカーテンに守られた自給自足体制であったことを利用して、日本との交渉を何度か完全にシャットダウンしている。日本の外交官たちがよく「ソ連に貝に閉じこもられると何もできなくなるから」と憂慮していた状態だ。ソ連は、いい加減なことを言っては都合が悪くなると「完全閉じこもり」の状態になってしまうのだから非常にたちが悪かった。

しかし、そういうソ連も米国との経済戦争に敗れ、ソ連邦が崩壊してロシアになり国際社会に出て来ざるを得ない状態になった。ロシアになり強い情報統制が解かれたため、国際的にいい加減な発言を連発しても国内的には鉄のカーテンを利用して国民にはごまかすことができるという時代ではなくなっている。また、今のロシアは国際的なサプライ/デマンドチェーンの中で資本主義的取引の環境に身を置き国の経済を保っているため、そういう意味でもソ連邦時代の自給自足経済のときのように都合が悪くなると会話をシャットダウンして自国に籠るということができなくなっている。さらに、今現在のロシアはウクライナ問題でソ連邦時代のような強権性を発揮して武力介入を行ったために国際社会から非難されて浮いているから、北方領土問題で国際的な賛同を一部でさえもロシアが得ることなど夢のまた夢の状態だ。

資本主義社会においては、言い方はえげつないが「金を持っている方は何でもできる」のだから、日本は自国のアドバンテージをもっと利用するべきだと私は思っている。また、日本と他国の国際関係も良くなっているのだから、サンフランシスコ講和条約第25条を利用して「貴国が言われる『日本が千島を放棄した』ということはどうやって説明できるのか?」と開き直って議論し直すことも可能なはずだ。1950年代の日ソ共同宣言の交渉時ならば、もしも日本がそう主張したならば逆に日本の方が国際社会から袋叩きにあっただろう。しかし、時代は変わって、日本に恨みつらみがある世代が消え冷静に日本のことを考えてくれる世代が増えている上に、ロシアの方は「侵略国家」として世界中から認定され非難されている。「サンフランシスコ条約を利用して物を言うならば、同条約22条に定められた義務に基づき国際会議で全千島20島の所属を決めるべきだ。平和的解決法は嫌か?」と詰問をするくらいでなければ、4島など返って来ないだろう。日本の外交官たちが恐れているような「自国に閉じこもって貝になってしまう」ということは、今のロシアには決してできない話なのだから、そういう点も憂慮しなくてよいはずだ。
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