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ロシア人の対日戦争観 2

前回説明したように、極東のロシア人たちは対日戦について酷く歪んだ「歴史認識」を持っているため、被害者であるこちら側はそれらを見聞きしているとひどく不愉快な気持ちになる。しかし、ヨーロッパ地域のロシア人たちの「歴史認識」も、極東のロシア人たちに負けず劣らず酷いものだ。ヨーロッパ地域のロシア人たちによれば、日本はドイツと組んでロシアに大迷惑をかけた「加害者」ということになっている。彼らは極東から数千kmも離れたヨーロッパに住んでいるため、他の国々のヨーロッパ人たちと同様に「千島列島がどこにあるのか」「カムチャッカ半島がどこにあるのか」さえ知らない。ましてや、70年も前に極東の地で起こった戦争の詳細についてはほとんど何も知らずに、ソ連邦時代に頭に叩き込まれた「日本は悪い存在であり祖国ロシアはもとより世界全体に迷惑をかけたから、ソ連は正義の戦いを行った。その結果、世界から感謝・賞賛されて北方領土を正当に領有することになった」などというとんでもない対日戦争観を持っている。そういう認識はロシア政府の高官たちにもよく見受けられるのであり、前大統領のメドヴェージェフがそうであり外相のラブロフなどもそうだ。次に述べるガルージン駐日大使もそういう意見の典型を主張している。ガルージンは北方領土については対日強硬派として知られていたが、プーチンはそういう人物を大使にして日本に送り込んだのだから、ロシアは領土問題を日本と話し合うつもりがないことが明白に理解できる。ガルージン駐日大使は、以下のように主張している。

https://jp.sputniknews.com/opinion/201807245153757/
>同意していただきたいのは、ロシア国民が、南クリルに抱いている感情も考慮されるべきだということです。南クリルが第二次世界大戦の結果、合法的にソ連のものになったということは、国連憲章によっても確定されています。我々の国が2700万人もの犠牲者を出して、ナチスドイツとその衛星国に勝利するにあたり最も重要な貢献をしたことは、覚えておくべきことです。

ソ連が北方領土を占領していることに対して法的・条約的な根拠が全く存在していないことは既に以下で説明した。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-05

ガルージンの発言は、そういうソ連時代からの間違いやごり押しに加えて、次の重要な点を忘れている。

 ソ連がナチスドイツに勝つことができたのは、
 日本が日ソ中立条約を守ったおかげであること

この日本側からの「恩」については、北方領土の返還理由にこそなっても不法占拠を続けるための理由にはならない。一国の大使が平気で頓珍漢な発言を繰り返している状態だ。



まず、独ソ戦直前の状況を理解しておく必要があるだろう。

1939年、ソ連はナチスドイツと不可侵条約を結んだ。そのとき、ソ連はポーランドの分割・併合とバルト三国のソ連への併合についてもドイツと秘密協定を結んでいた。さらに、将来的なフィンランドのソ連への併合についてもヒトラーから内諾を得ていたと言われる。1939年9月ドイツがポーランドに侵攻すると直ちにソ連もポーランドに侵攻し、東西ポーランドを独ソで折半してポーランドという国を消滅させた。英仏などがドイツの侵略行為を責めるのであればソ連についても同様に責任を追及するべきであるが、ソ連は戦勝国として連合国に加わっているためにその責任はあまり追及されていない。ソ連は単に東ポーランドを併合しただけでなく、同国の復活運動を防ぐためにポーランド人の軍人や知識階級などの「国の頭脳」を何万人も抹殺した。後にソ連が行った軍人への虐殺事件であるカチンの森事件などが発覚するが、ソ連はグラスノスチ政策が行われるまで「ナチスのやったことだ」と強弁して譲らなかった。因みに、当時の東ポーランドはいまだにポーランドから奪われたままだ。ポーランド侵攻直後の1939年11月、ソ連は今度はフィンランド全土の併合を視野に入れながら、まずは領土の割譲を求めてフィンランドに侵攻した。「冬戦争」と呼ばれたこの戦いでフィンランドは圧倒的少数にも関わらずによく防戦したため相対的にソ連軍の実力が低く評価された。そのことがナチスドイツの判断を誤らせ独ソ開戦の一因になったと言われている。多勢に無勢のフィンランドは、結局、国土の10%を割譲させられて講和条約を結んだ。次にソ連はナチスとの密約通りに1940年6月にバルト三国に侵攻して併合した。また、それと同時期にルーマニアにも圧力をかけベッサラビアを割譲させている。

つまり、当時のソ連は「正義の戦い」など行っていない。

ナチスドイツが英仏蘭などの西欧諸国と戦っていた間、ソ連は東欧に侵攻して着々と領地を広げ、全欧州を東西でナチスドイツと折半して領有することが計画通りに進められていた。しかし、ドイツは英国戦線で行き詰ったため、ソ連を征服し欧州全土を掌握して英国に大陸から圧力をかけることを計画し始めた。この結果、1941年6月に独ソ戦が始まった。この時はまだ「連合国」などは存在せず、互いに不可侵条約を結んでいた日独ソの内の2国が仲違いを始めただけの状態であったことに注目しておく必要がある。

ナチスドイツのソ連侵攻作戦は「バルバロッサ作戦」と呼ばれる有名な作戦であるから、詳細を書く必要はないだろう。以下に、ウィキペディアの一例を紹介する。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B5%E4%BD%9C%E6%88%A6

バルバロッサ作戦が始まると、ソ連軍は戦車や飛行機など最新兵器の数や質において劣っていた上に不意を突かれたこともあり次々と敗北を重ねた。この侵攻作戦のとき、それまでソ連に抑圧されていた国々はナチスの味方をした。ルーマニアやブルガリア等はドイツの側に立って戦い戦後に敵国条項の対象国になり、ウクライナはナチスドイツ軍を歓迎して迎え入れたりもしている(ただし、後にナチスの真意を知るとナチスへの協力はなくなる)。ソ連軍は、6月の開戦後敗北に次ぐ敗北を続け、100万人単位の捕虜を出しながら10月初旬にはモスク近郊まで一気に押し込まれた。ドイツ軍の侵攻作戦の成功により、ソ連軍は戦車や飛行機のほとんどが潰されてモスクワが窮地に陥った。このときモスクワを救ったのが、満蒙周辺の対日本軍用に配備されていたシベリア師団だ。ソ連は、ドイツに備える以上の軍備を日本に対して保持し、満蒙国境近辺に配備していた。ソ連は、これらの軍団を何週間かかけてシベリアや極東から次々とモスクワ近辺に輸送して首都の防衛に当てた。

以下のページによれば、モスクワ攻防戦時に18個師団、戦車1700両、飛行機1500機以上がシベリアや極東からモスクワに向けて輸送されている。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

モスクワ攻防戦が始まった頃のドイツ軍の戦車数は約2千数百両であったから、極東からヨーロッパへ輸送された戦車千数百台が如何に貴重な物であったかが分かる。また、ソ連軍の飛行機の稼働数も数百機だったところに新たに千数百機が加わったのだから、その価値も計り知れない。師団数においても、ドイツ軍により壊滅させられたソ連西方面軍を補充するためにあまり役に立たない新兵を中心に全58師団が集められたが、その中でシベリア・極東師団の18師団分が実戦経験を積んだ精鋭部隊であったこともソ連側に大きく貢献した。これらの新兵力と冬将軍の前に、ドイツ軍はモスクワをわずか数Kmの眼前にしながら攻略できず次第に劣勢になって行った。

この独ソ戦の間、満州周辺のソ連軍はもぬけの殻の状態であり戦力が激減していた。第二次世界大戦末期のソ連軍の満州侵攻時とは逆の状態であり、もしも日本が極東やシベリアを攻めようと思えば容易く攻め取れた状態だったが、日本は日ソ中立条約を守り少しも手出しをしなかった。ソ連はこの時の日本による「恩義」を忘れて終戦時に蛮行(以下参照)を行い、恩を仇で返している状態だ。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-02

さらに、あろうことか、極東の事情をよく知らないロシアの人口の8割を占めるヨーロッパ地域のロシア人マジョリティーの何割もが、「日本はドイツと軍事同盟を結んでいたから極東からは日本軍が戦争を仕掛けていたはずだ。それにより、祖国ロシアは被害を受けたはずだ」と思い込んでいたりする。そのため、「日独がロシアに大被害を与えたのに、今さら領土を返せと言うのは都合がよい」と激高するロシア人たちがかなり存在する。



まず、一国の大使として相手国の歴史を正確に把握しているべきガルージンに対して言いたいのは、ソ連邦時代に自国内で意図的に流布された「ソ連の栄光を捏造するための嘘」ではなく、真実に基づいた日本側の国民感情についてこそ考慮するべきだということだ。ソ連共産党が国民に対して騙しに騙しを重ねた「嘘の歴史」ではなく本当の歴史を知れば、北方領土というのはロシア側が胸を張れた代物ではなく「ソ連の負の遺産」であることを正確に認識できるだろう。

歴史を正確に認識することは重要なことだ。たとえば、ガルージンは「我々の国が2700万人もの犠牲者を出し」などとも主張しているが、これらの数字は誇張されたものだ。ソ連邦時代には「第二次世界大戦のソ連側犠牲者数は1500万人だ」と主張して西側の学者たちから「900万人くらいのはずだ」と批判されていたが、2700万人というのはあきらかにロシア人以外の犠牲者を含んでいる数字だ。今では独立国であるウクライナ・ベラルーシ・バルト三国の犠牲者に加えて東ポーランドやルーマニアなどの犠牲者も加えたものだ。それらの犠牲者の中には、ソ連軍がドイツ軍の捕虜となった者たち数百万人をナチスドイツから取り戻した後に「腰抜けの裏切り者」として処刑したり虐待死させた分や、ソ連軍が東欧戦線において民間人たちを戦闘に巻き込んだ分を多量に含んでいる。ロシアやソ連が長年無理に異民族を支配して領土を奪った結果、ソ連が散々に嫌われて各民族により独立運動や離反運動を起こされ、中にはNATO側に加わるほどにロシアを嫌っている他国人の犠牲者の分を「ロシアの犠牲者」としてカウントする神経が理解できない。また、近頃はソ連時代のように情報統制が行われておらずロシア市民たちがネットに自由に書き込めることにもよるのだろうが、上述した「バルバロッサ作戦」などは、一昔前の「ロシア軍ぼろ負け」の実情が「ロシア軍の奮闘」の記述の羅列によって見えにくくなっているようにも思える。ロシア国粋主義者たちが大手を振って闊歩するような社会というのは、戦前日本に右翼たちが蔓延った社会の二の舞になるのではないかと他人事ながら心配になる。

付け加えておきたいのは、屁理屈でも間違った歴史認識でも何でも、ここまで自国の利益を熱弁するガルージンのような外交官というのは立派だということだ。日本人としてはガルージンの言うことは決して認められないことだらけだが、彼がそこまで祖国ロシアのために嘘をついてまで熱弁をふるっていることはある意味、天晴でもありうらやましくもある。日本の外交官どころか民間メディアまで首相周辺だけのおかしな意見に「忖度」して、日本の方が正当も正当であることをほとんど主張せずにロシアの嘘に次ぐ嘘の主張にすべてを譲っている。さらに、日本の国内向けに新聞等が「正当な意見」を言っても、それにロシア大使が横から激しく噛みついてくるような状態だ。もしも、これと逆のことを日本の大使がロシアで言ったり行ったりしたのならば、ロシアから日本に向けてどれほど激しい抗議が起こることになるだろうか。少し日本側が何か言えば「内政干渉だ」と猛抗議するのがソ連やロシアの政策だ。ところが、日本に対しては、ロシアの大使は平気で「嘘による内政干渉」を行い日本の世論を誘導しようとしている。そう思うと、日本の政権はまともに日本人のために行動しているとは思えなくなってくる。皆が買収されているような売国奴による政権のように思えて情けない。
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ロシア人の対日戦争観 1

ソ連は終戦時に非常に汚いやり方で侵略行為を行い、大量に日本人民間人を殺した上に日本から領土を奪った。ソ連の行為は違法・不法であり、基準が厳しくなって来ている現代の国際法の下で承認される可能性はほぼ0だ。しかし、ロシア人たちの感覚は全く逆であり、当時のソ連が日本に行ったことに誇りを抱いている。なぜそうなったのかと言えば、ソ連邦時代にソ連政府が鉄のカーテンを利用して徹底的に嘘の情報を市民たちに教え込んでいたからだ。小中学校での教育はもちろんのこと、成人した市民たちに対しても映画館での本編上映前に政府宣伝用小編映画を流し、ラジオ・テレビなどでもしつこく嘘の教育を行っていたからだ。そのため、情報統制が緩くなった現在においても、ロシア人たちの対日戦についての感覚は、我々日本人の物とかけ離れている。ロシア人たちは対日戦についてそういう感覚を持っているため、ロシア政府の高官たちが平気で次の様な発言を繰り返している。

https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000148606.html
>タス通信によりますと、色丹島を訪れたイワノフ大統領特別代表は26日、「領土問題があると考えているのは日本だけだ」として「北方領土の引き渡しについて日本とロシア政府は一切、議論していない」と述べました。

ロシア政府の高官には、日本の主張や世論を抑え込むためのテクニックとして日本に対して敢えて強い主張をしているように見受けられる者たちもいるが、ソ連時代の嘘の教育が身に染みていて本当に心からそう信じて発言しているように思える者たちもいる。そのような者たちは、ソ連が終戦時(以降も)に行った以下のような蛮行の数々を知らない。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-02

ソ連政府が「そのようなことは日本のでっち上げだ」と市民たちに宣伝しまくっていたためだ。1990年頃にグラスノスチ政策が行われて初めて、ソ連はシベリア抑留について謝罪の意を表わしたが、シベリア抑留はソ連国内で行われソ連に資料が残されていたから認めざるをえなかっただけだ。日本人民間人への虐殺行為や日本から降伏の意思が示された後に攻撃を開始したことなど、その他の外地で起こったソ連の傍若無人な違法・不法行為の数々についてはすべて無かったか「日本のでっち上げ」か「日本に責任がある」ということになっている。そのように、ソ連により捻じ曲げられた「歴史」を無邪気に信じているような者たちは、ソ連邦時代に教育を受けた今のロシア政府高官の世代の中に大量に存在している。次回は、そのような人物の典型を一人選んで考察の対象とさせてもらうつもりだが、今回は以下のような「ロシアの庶民感情」について、それがどのくらい史実とかけ離れているか考えてみたい。

http://www.news24.jp/articles/2019/02/07/10416357.html
>ステパノフさんにとって、北方領土とその周辺の島々は、多くの戦友が文字通り、命を懸けて獲得した領土で、日本への引き渡しには反対だという。

占守島というのは約20島ある千島列島の最北端の島であり、千島方面においてソ連軍が最初に侵攻した島である。占守島の戦いが起こったのは8月18日だ。日本はそれより4日前の8月14日にポツダム宣言を受諾し降伏する旨を連合国側に伝えていた。国内的には翌8月15日に玉音放送が行われた。それにより、英米欄軍などの多くは戦闘を止めた。占守島の日本軍も武装を解除し、弾薬や燃料などの半分を処分して帰国の準備をしていた。ところが、ソ連軍だけは8月18日深夜にいきなり砲弾を撃ち込んで日本軍のいた占守島に進撃して来た。米国のマッカーサーが占領政策を行うために厚木に降り立った時は爆弾や砲弾などは落していないのだから、ソ連軍の行動は明らかに平和的な占領政策をするためのものではなかった。このように、日本側から降伏の意思が伝えられたにも関わらず攻撃が開始された背景には、「終戦時のどさくさに紛れて北海道を占領する」という目的がソ連にはあったからだ。同じようなことが樺太でも起こっていた。当時の状況については、たとえば以下でよく説明されている。(私としては、右系チャンネルはあまり好きではないのだが)

https://www.youtube.com/watch?v=7LsUV0ZOuu4

深夜にどこの国のものともわからない軍隊が突然、砲弾を撃ち込んで攻撃してきたため、帰国の準備をしていた占守島の日本軍は大慌てになった。日本政府は、8月15日に終戦を宣言した後も現場の日本軍部隊に対しては「自衛のための戦闘はやむをえない」と承認していたため、日本側は急遽部隊を編成し直してどこの国のものかわからない軍隊に対して反撃を行った。やがて、敵がソ連軍と分かった。千島列島の日本軍は、米国との戦闘に巻き込まれずほぼ無傷なまま残存していたため戦力は充実していた。その結果、上陸して来たソ連軍をどんどん押し戻した。そして、ソ連軍を海岸に追い詰めて簡単に殲滅できる体制になった。このとき、自衛のための戦いであったから、日本軍はそれ以上の手出しはしていない。日本軍はその時から停戦交渉を行い、最終的に23日にソ連軍に投降して武装解除された。占守島の戦いの様子は以下によくまとめられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E5%AE%88%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

この戦いは自衛のための戦いであったために、日本軍がソ連軍を明らかに殲滅できた状態であったにもかかわらず部隊を引かせている。だから、決して、元ソ連兵の言うようなソ連側が胸を張れる戦いではない。また、日本の降伏の後に占守島の戦いを起こしたソ連の侵略的な意図も、強く非難されるべきものだ。日本の降伏後に不要な侵略戦争を起こして双方合わせて千人を超える戦死者を出しておきながら自分たちの暴虐さを理解していないのだから、ロシア人の対日戦についての認識がよく現れた身勝手な元ソ連兵の「武勇譚」だ。ソ連時代はそういう「祖国の英雄」たちを賞賛して積極的に宣伝に利用していたのだから、ロシア人たちがいまだに対日戦について胸を張って自分たちの「栄光(本当は汚辱の塊)」を自慢している状態だ。対日戦については、そういうように間違った認識が今のロシア人全体に、特に極東の事情を知らないヨーロッパロシアに広く蔓延している。(以下参照)

https://ironna.jp/article/2415?p=2

https://digital.asahi.com/articles/ASLB34SXJLB3UHBI01N.html?_requesturl=articles%2FASLB34SXJLB3UHBI01N.html&rm=834
>郷土史の教師アナトーリ・シュルーブさん(68)は「17世紀にロシア人が島を発見。居住、調査、開拓をした。国際法上、ロシアの領土と認められる」と子供たちに教えているという。ロシアより先に日本が北方領土を発見・調査したという日本の主張とは真っ向から対立する。

ソ連時代にソ連政府が鉄のカーテンを用い情報統制を行ってロシア人たちを洗脳した影響が今でも強く残っている。ロシア人たちのこういう酷く間違った認識を正すことができない限り、領土交渉などありえないだろう!
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6、北方領土の歴史とおかしな人たち

未だにインターネット上には、北方領土についておかしな記述が転がっている。以下のページなどは、北方領土の歴史と言い条約の解釈と言い、とてもまともとは思えない。

 http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Yasashii.htm

上のページでは、たとえば、北方領土の歴史について古いブリタニカ百科事典を引いて次のように説明していたりする。

>世界で一番有名な百科辞典である『ブリタニカ百科事典』で調べると、英語で、次のように書いてあります。
千島には最初にロシア人が住み着いた。これは17、18世紀の探検に引き続いて行われた。しかし、1855年、日本は南千島をうばいとり、1875年には全千島列島を領有した。1945年、ヤルタ協定にもとづいて、 島々はソ連にゆずりわたされた。日本人は引きあげ、かわってソ連人が移住した。日本は、今でも、南部諸島に対する歴史的権利を主張し、 島々に対する日本の主権を回復するように、ソ連・ロシアを、くり返し説得している。

これは甚だしい事実誤認であり、今のブリタニカ辞典では以下のように改変されている(それでもまだ、「サンフランシスコ講和条約によりソ連に割譲された」などと親ソ的な間違った記述が目立つのだが)。

 https://www.britannica.com/place/Kuril-Islands



北方領土の歴史を振り返ってみる。

日本書紀には西暦658年に阿倍比羅夫が北海道の蝦夷と樺太の粛慎を征伐した記述があるそうだが、その真贋は定かではない。一般的に和人が蝦夷地と呼ばれた北海度に渡って暮らすようになったのは、鎌倉時代(1185年~1333年)の後半と言われる。その頃の蝦夷地にはアイヌやギリヤークと思われる諸族が入り乱れて存在し、互いに交易したり抗争したりしていた。当時の和人たちも、そういう諸勢力の中の一勢力でしかなかった。その後和人の進出地域は広がり、1457年の和人とアイヌとの間で起こったコシャマインの戦いでは、和人は余市や鵡川で戦ったことが記されている。(以下参照)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

戦いを鎮圧後、鉄器を有し優越する武力を有した和人は蠣崎氏の下に結集して道内のアイヌを次々に服従させて行き、1475年には道外の樺太アイヌからも貢物が献上されている。16世紀後半には蝦夷地全体のアイヌを抑えた蠣崎氏に蝦夷貿易の独占を許す朱印状が豊臣秀吉から与えられている。1599年に蠣崎氏は松前氏と姓を変え、藩政を整えて着々と蝦夷地経営を充実させた。「新羅之記録」によれば、1615年から1621年頃には根室地方のアイヌ(北方四島のアイヌ)が松前に来て貿易をしていたことが記録されている。また、この頃(1644年)幕府に献上されたのが「正保御国絵図」であり、そこには初めて「くなしり、えとほろ、うるふ」などの千島列島の名前が記されている。和人たちは漁師や金採掘者などとしてその時代より遥か以前から道内全域に広がっていたから、千島列島の存在を認識して利用したことは庶民の間では正式な記録よりも前から行われていたはずである。

部族の長を抑え蝦夷地をまとめた松前藩は、独占貿易により不平等な取引をアイヌたちに強要したため、次第にアイヌたちは不満を鬱積させるようになった。やがて、アイヌたちは1669年にシャクシャインの反乱を起こした。(以下参照)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

この反乱が鎮圧された後は、それまでのような各地のアイヌ勢力を和人が緩くまとめるという形ではなく、松前藩が蝦夷地全域をかなり直接的に支配するようになった。1715年の幕府への上申書には「北方領土が松前藩領として統治されている旨」が書かれていて、1754年には松前藩により北方領土に場所が開かれている。(以下参照)

 https://www.hoppou.go.jp/gakushu/outline/history/history1/

一方、ロシア人の千島進出はどうだっただろうか?

西洋人としては、オランダ人ド・フリースが1643年に最初に千島列島を発見した。ロシア人として誰が最初に千島を発見したのかは判然としていないが、ロシア人が千島を最初に訪れた時期はその数年後のようだ。そういう事情は、ロシア側について若干歴史を誇張しているような以下のページでも確認することができる。

 https://jp.rbth.com/travel/2017/07/28/813048

こういう説明から判断すると、ロシア人が千島列島を見つけたのは大体1650年代くらいの話ということになる。その後、ロシア人たちが千島列島に本格的に進出して行ったのは、1711年以降のことだ。(以下参照)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E5%9B%BD#%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8D%97%E4%B8%8B

そもそも、当時のロシアは沿海州さえも確保できず、1689年に清ロ間で結ばれたネルチンスク条約においても清国が樺太の対岸の地域を領有していた。(以下参照)

 https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/aa/d5839d63027e70d69d5bb657790be64b.gif

当時のロシアはやっとのことで樺太近海に探検隊を送っても、1809年に日本人の間宮林蔵によって発見されるまで「樺太が半島なのか独立した島なのか」を知ることさえできない状態だった。また、間宮が樺太に渡り調査を行ったときには、樺太アイヌたちは対岸の清国に貢物を贈っていたため、間宮もそれに便乗して対岸の中国官吏(東韃靼人)たちに会っている。ロシア人たちは清王朝が支配した沿海州や樺太からの南下を諦め、カムチャッカ半島方面からの南下を重視するようになったと言われている。ロシア人たちは、1711年に初めて千島列島最北端の島である占守島に本格的に足を踏み入れてから千島列島の南下を続け、1780年頃から頻繁に北方4島にも来訪するようになった。そして、日本に開国するようにしきりに強要したが、日本側が無視したため、何度か北方領土周辺の日本側拠点を襲撃して圧力をかけたりしている。樺太にも少数だが既に日本人たちが存在していて、そこもロシアの襲撃を受けた。4島以北の島々にも少数の日本人たちが存在していたが、ロシアの遠征によりたびたび捕らえられてロシア本国に送られ、厚遇されて日本語教師にされたりもしている。その後も千島列島において日ロの紛争がたびたび起こったので、幕府とロシア政府は1855年に日露和親条約を結び、国境を4島の北に設定した。



以上のように、千島列島における日本とロシアの歴史を見てみれば、どちらが先に千島に進出して自国民の生活の場としていたのかは火を見るよりも明らかだ。細かい両国の歴史を見なくとも、総論的に常識的に考えても、ロシア人のウラル以東への遠征が本格化したのはコロンブスが新大陸を発見した後(1492年)だから、その時から数千kmのシベリアを渡って極東に達するまでに長年月を要したことは容易に想像がつく。新大陸でインディアンを征服して行ったようなものであり、ロシア人の遠征隊もたびたびシベリア原住民たちにより襲撃されている。それに比べて、鎌倉時代から日本人が進出していた土地の隣の土地である千島列島は、発見も支配も日本人の方がはるかに早かったのは当たり前のことだ。

さて、冒頭に引用したウェブページでは、これをまったく逆に書いているのはどうしてなのか気になった。そして、ウェブページで参照している文献の著者たちを見て納得がいった。それらの著者の内の一人は「北朝鮮学」が専門のようであり「朝鮮戦争は、先に南朝鮮が仕掛けようとしたために仕方なく北朝鮮が先攻した」と主張し、ソ連のグラスノスチ政策により情報が公開されるまでは自説を譲らなかった人物である。また、慰安婦問題についても、政府委員として「まったく証拠がない」という他委員からの指摘にも関わらずに「慰安婦の強制連行は存在した」と独断して強硬に政府の方針を決めた人物でもある。他の著者について見ても、南京虐殺の犠牲者数を20万人としていたりする。(ちなみに、私も南京虐殺は有ったと思っているが、その規模はもっと小さかったはずだと認識している。)これらの人たちは、以上に説明したように歴史事実だけを見てもおかしな意見を言っているのだが、条約の解釈についてもソ連の理屈の立たない主張をそのまま受け売りして書いているだけであり、まったく条約の解釈になっていない。条約の話についてはすでに以下で説明したことであるから、ここでは指摘しない。

 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04
 https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-05

こういう人たちがいて変に政府を煽るために、北方領土問題について政治家が冷静な判断を行えなくなる一因となっているのではないだろうか? 右翼の煽りは迷惑なのだが、左翼の暴論も冷静な議論において迷惑でしかないと痛感している。
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5、敵国条項について

ソ連は、千島列島領有についての法的な根拠を何も持っていない。

ソ連は、「ヤルタ協定」「ポツダム宣言」「SCAPIN677号」「サンフランシスコ講和条約」などを持ち出して千島列島の領有が正当であると主張していたが、いずれも理由にならないことは説明した。(以下参照)

https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04

どれもが理由にならないからこそロシアは慌てているのであり、その結果「屁理屈でも何でもよいから何としても日本にロシアの千島列島領有の正当性を認めさせる」という態度に出ている。そして、ロシア外相のラブロフが今度は「国連憲章敵国条項」を持ち出して以下のように強弁しているが、これは、戦後70年の時間が経ち国際関係と国際法の考え方が変わり立場がどんどん不利になっているロシア側の焦りの表れでしかない。

http://news.livedoor.com/article/detail/16059544/
>ラブロフ氏はモスクワ市内の会合で、旧敵国条項の一つ、国連憲章第107条を念頭に「国連憲章には(第2次大戦での)戦勝国による行為は交渉不可能と書かれている」と主張したことを明らかにした。

国連憲章には「敵国条項」と呼ばれる項目がいくつか存在する。具体的には国連憲章第53条、第77条、第107条に「敵国」の文言が現れる。このうち、第77条は信託統治に関する条文であり、日本については日本が大戦により手放したサイパン・パラオ・トラック諸島などが関係するだけで北方領土とは関係がない。また、第53条は安全保障に必要な地域的な強制措置についての規定であるが、「そのような強制措置は正式な機構が敵国(日本やドイツなど)の新たな侵略を防止するまで」と期限が切られていて、しかも今現在は日本やドイツなどが侵略行為を行っていないのは明白であるから、これも北方領土の話とは関係がない。国連憲章の敵国条項の中で北方領土と関係する可能性があるのは、上記ラブロフ発言にも現れる第107条ただ一条のみだ。

第107条についてのラブロフの主張は、問題にならないレベルの酷い頓珍漢さを示している。第107条の条文を英文で見てみる。

 https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/unch-je.pdf
 Article 107
 Nothing in the present Charter shall invalidate or preclude action, in
 relation to any state which during the Second World War has been
 an enemyof any signatory to the present Charter, taken or authorized
 as a resultof that war by the Governments having responsibility for
 such action.

この長い一文の主な骨格は、以下の部分である。

 Nothing in the present Charter shall invalidate or preclude action...

 「Nothing in the present Charter」という主語が「action(措置)」と
 いう目的語を決して「invalidate or preclude 」してはならない…

 (否定形の「shall」は、特に法文などで用いられたとき、
  「未来予測」ではなく「強い禁止」を表すということに
  説明の必要はないだろう。日本語で言えば、現代の文章
  では珍しくなった「絶対に○○すべからず」というように
  でもなるだろうか)

 つまり、日本語にすればこういうことだ。

 「この憲章のいかなる部分も、(以降で説明される)措置を決して無効に
  したり排除したりしてはならない」

上記骨格部分の後に、「action(措置)」の内容についての詳しい説明が書かれている。その内容は以下のようになる。

 in relation to any state which during the Second World War has been
 an enemy of any signatory to the present Charter, taken or authorized
 as a result of that war by the Governments having responsibility for
 such action.

 「この憲章の加盟国のいずれか一国に対し第二次世界大戦中に敵対した任意の
  国に関する措置であり、(しかも)それらの措置に対して責任を有する(加
  盟国の)政府により大戦の結果として採用されたり承認されたりした措置」

以上をまとめると、国連憲章第107条は次のように訳されることになる。

 国連憲章第107条
 この憲章のいかなる部分も、この憲章の加盟国のいずれか一国に対し第二次
 世界大戦中に敵対した任意の国に関する措置であり、(しかも)それらの措
 置に対して責任を有する(加盟国の)政府により大戦の結果として採用され
 たり承認されたりした措置は、決して無効にしたり排除したりしてはならない。

さて、主語が「Nothing in the present Charter (この憲章のいかなる部分も)」というように人ではない抽象的な概念になっているが、これは、条文の不明確さを排除するために必要な書き方だ。例えば主語を「何人たりとも」などとすれば、「国は例外か?」「法人は例外か?」「まだ存在していなかった新規独立国はどうなるのか?」などというように不明な部分が大量に生じるだろう。そういう不明確さを排除して「どのような存在がどのような条件で行おうとも(以下のことは禁止される)」とするために、このように分かりにくい形の主語で書かれているだけだ。ということは、敢えて曖昧さを加えてもう少しわかりやすい日本語に意訳すれば、第107条は以下のようになる。

 国連憲章第107条
 何人たりとも、この憲章の加盟国のいずれか一国に対し第二次世界大戦中に
 敵対した任意の国に関する措置であり、(しかも)それらの措置に対して責
 任を有する(加盟国の)政府により大戦の結果として採用されたり承認され
 たりした措置については、それらを無効にしたり排除したりする目的でこの
 憲章のいかなる部分をも決して利用してはならない。

つまり、我々がやってはいけないことというのは、「国連憲章の一部を利用する」という形で戦勝国の採用した方針に盾突くということだ。国連憲章は1945年に作られたものであり、各国に平等な政治的独立を認めている。そのため、国連憲章中の規定のいくつかは、そのままでは、当時の日本やドイツにおける連合国による占領統治政策と衝突してしまう。それを避けるために「占領統治などは例外であり、文句を言えない」ということを保障するために設定された条項が第107条だ。

いずれにしても、我々がやってはいけないことというのは、「国連憲章の一部を利用する」という形で戦勝国の採用した方針に盾突くことだ。

さて、では、我々日本人が「北方領土を返せ」とロシアに対して主張しているとき、我々は国連憲章のどこか一部でも利用しているだろうか? 答えは、NOである! 我々日本人が北方領土に関してロシアに抗議している根拠は、「1855年の日ロ和親条約」や「1875年の樺太・千島交換条約」であり、また、「1943年のカイロ宣言」である。

それらはいずれも、国連憲章とは関係がない!

「1855年の日ロ和親条約」も「1875年の樺太・千島交換条約」も「1943年のカイロ宣言」も、独自の2国間の条約や約束であり国連憲章とは関係がない。(条約的な考え方については、他の事項まで含めて既に以下で説明した。)

https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-01
https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-03
https://qvahgle-gquagle.blog.so-net.ne.jp/2019-03-05-04

ここまで見てくれば、「国連憲章には(第2次大戦での)戦勝国による行為は交渉不可能と書かれている」というラブロフの主張がいかに的外れなものであるかは火を見るよりも明らかだ。こういうことから考えると、

 ラブロフは、分かってゴリ押しをしているか、英語が読めないとしか思えない!
 (しかも、国連憲章についてロシア語の訳が存在しないかまともな訳が存在し
 ないということでもあるようだ)

我々日本人は日本語という膠着語を用いているために、インドヨーロッパ語族の屈折語である英語を理解することはかなり難しい。しかし、同じインドヨーロッパ語族のロシア語と英語の関係において、英語が全く読めない者が堂々と人前で無知をさらしても平気な国というのは、どういう教養レベルにあるのかはなはだ不思議に思えてしかたない。普通、日本やアメリカなどの場合は、文書の意味が分からずに滅茶苦茶なことを言っていると「国家の品格に関わる」として他の閣僚やマスコミなどから苦言が呈されるものだ。

いずれにしても、人権や平和の考え方が時間の経過とともに世界中に浸透するにつれて、70年前にロシアの行った理屈の立たない暴虐な侵略行為が弁護される余地は皆無に近くなっている。そのため、ロシアは次々に嘘をつき屁理屈を並べている。最近のラブロフの発言というのもそういう類の意味のない歪曲されたものだ。ロシアの政府高官が明らかな嘘や誤解に基づいて国民を焚きつけ扇動していることについては、日本側は厳しく非難・抗議するべきだ。それを全く行わずに嘘を一人歩きさせると、後でそれを修正する分が何倍もの負担になって返ってくることを我々日本人は肝に銘じて対処するべきだろう。
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